侍戦隊シンケンジャー第七幕

東映侍戦隊シンケンジャー」。
第七幕「舵木一本釣」。脚本:小林靖子。監督:中澤祥次郎。
永らく行方不明だった舵木折神を捕獲するため、「殿様」ことシンケンレッド志葉丈瑠(松坂桃李)の命により海へ釣に出かけたシンケンブルー池波流ノ介(相葉弘樹)。なかなか捕まらない舵木折神を相手に苦闘し、モヂカラを使い過ぎた疲労から気を失った彼は、一人の漁師に介抱された。なぜか侍戦隊シンケンジャーのことをよく知るその人物は、流ノ介を相手に、現代において「侍」であろうとすることの苦しさと空しさを語った。先代の殿様の討死のとき殿様を助けることもできず家臣であることの無力感を抱いて官を辞した人物の知人と自称するこの漁師が、むしろその旧臣その人に他ならないことは、家老の日下部彦馬(伊吹吾郎)との会話によっても明らかだった。所謂「黒子」として先代の殿様の側近くに仕えながら、討死から殿様を助け出すことを得なかったことを悲しみ、この世の空しさをも感じて「侍」の世界から離れていたのだ。確かに、殿様は「殿様」でさえなければ、「侍」でさえなければ討死をすることもなかったろう。一人の人としての先代志葉家当主を愛していた者にとって、「殿様」や「侍」であることこそは、呪わしく憎い事実だったに相違ない。
世襲の「侍」であることの空しさ、苦しさを説く人物との遭遇によって、改めて「侍」として主君とともに生きたいという己の固い決意の存在を自ら再確認できた流ノ介と、そのような彼との遭遇によって「侍」に仕えて生きることの意味を再発見し得た先代の遺臣、元「黒子」の朔太郎(綱島郷太郎)。流ノ介は、失いかけたものを再発見したのではなく、「殿様」と一緒に生き始めてから自ら固めてきた心からの忠義を、変わることのない思いとして確認したのであり、このような不変の心があるからこそ、忠義の対象を失って以来、生きる意味をも見失った朔太郎に、失ったものを再発見させることができたのだ。
それにしても、「殿様」こと丈瑠は、普段は無表情な「殿様」として振る舞い、戦場では長身を活かして堂々颯爽と闘うが、厳しい修業や敵からの酷い攻撃によって痛めつけられて倒れる場面では、あの元来の愛らしい顔立ちの所為か、観る者を動揺させずにはいないような弱さを感じさせる。痛めつけられ方が実に様になっていて美しい。
侍巨人シンケンオーの今回の攻撃が連獅子のような動作を取っていたのは流ノ介の特技を見せたものだろう。こういう趣向も面白い。