仮面ライダーディケイド第二十一話

東映仮面ライダーディケイド」。
第二十一話「歩く完全ライダー図鑑」。脚本:井上敏樹。監督:田崎竜太
九つの世界をめぐる旅を終えた門矢士(井上正大)と小野寺ユウスケ(村井良大)と「夏みかん」こと光夏海(森カンナ)の一行は、夏みかんにとっての「元の世界」、云わば夏みかんの世界に戻って来たつもりだったが、実はそこは夏みかんの世界と一見よく似た正反対の世界。写真のネガとポジに譬えるなら「ネガの世界」と云うことのできる世界だった。一人、海東大樹(戸谷公人)だけはそのことを知っていた。
このネガの世界を支配するのは紅音也(武田航平)。紅音也は紅渡のネガの存在であると解すべきだろうか。
本当の「夏みかんの世界」には、夏みかんにとっての思い出の場所があり、思い出の人々がいるはずだが、ネガの世界にはその場所と同一であるとしか思えない程よく似た場所があり、よく似た人々がいる。それどころか、夏みかんによく似た人物さえもいる。ネガティヴ夏みかんとでも云ってよいかもしれない。無論、よく似てはいても全く別の場所、別の人々だ。夏みかんの世界にあるはずのその場所には一つの思い出があり、その世界にいるはずの思い出の人々は同じ思い出を共有しているはずだったが、ネガの世界に現にあるその場所には、ネガティヴ夏みかんにとっての忘れ難い(そして現在も進行中の)事件の記憶が確かに刻印されていて、しかし、かつてその記憶をネガティヴ夏みかんとともに共有していたはずの人々は既にいない。
かつて夏みかんは、平和で退屈な日常を打破するために、仲間たちと一緒にその場所に集った。しかしネガの世界のネガティヴ夏みかんは、退屈なまでに平和な日常を破壊し尽くした怪物たちの驚異から逃れて、仲間たちと一緒に何としてでも生き残るために、その場所に隠れた。まさしく正反対だが、唯一共通する点があると云えなくもない。夏みかんもネガティヴ夏みかんもともに自分自身の本当の居場所を求めてその場所に陣取ったのだ。
門矢士にとっての十一番目の世界であるこのネガの世界には、今まででは唯一、救済がなかった。ネガティヴ夏みかんは今後も、どこにも逃げ場のない恐ろしい世界の中を、生き残りをかけて逃走し続けることだろう。それもまた「本当の自分自身、出会うため」の、本当の居場所を求める旅であるのかもしれないが、この旅には終わりがないだろう。何の救いもないが、そうであるほかないのだ。門矢士にとっては苦い「目撃」になったろう。
門矢士とユウスケと夏みかんに光栄次郎(石橋蓮司)を加えた奇妙な四人の旅は、今ここに新たな始まりを告げた。
旅を止めるならこの世のあらゆる快楽を与えよう!と申し出た紅音也に対し、「違うな!」と反論して門矢士は云った。「人は誰でも、自分のいるべき世界を探している。そこは偽りのない、陽のあたる場所。そこへ行くために、人は旅を続ける。そして旅を恐れない。」「その旅をけがしたり、利用したりする権利は誰にもない」。この演説は、幾つもの世界をめぐる奇妙な旅を続けることが門矢士ならではの「ヘーラクレースの選択」に他ならないことをよく物語る。現状の自分自身に幻滅して全てを投げ出してしまったり、快楽に溺れて自分自身を見失ったりしてはならない。「本当の自分自身」を常に求めて旅を続けなければならない。それは全ての人々の使命であり権利であると彼は考えている。
もっとも、門矢士に旅を止めさせるため紅音也が提供した数々の快楽や幸運に、一時は彼も溺れかけていた。そこで彼の目を覚まさせたのはユウスケに他ならなかった。門矢士にとっての導き手ともなる信頼できる友としてのユウスケの役割は(意外にも)健在だったのだが、反面、ユウスケもまた快楽には弱いところがあるのも何時もの通り。
なぜか唐突に(もちろん恐らくは紅音也の陰謀により)アイドルとして大々的に売り出されることになった門矢士の、デビュー写真集「通りすがり」の撮影のとき、急遽ユウスケも加わえた写真も一枚か何枚か撮影することになり、それまで門矢士がアイドルになること自体に反対していたはずのユウスケが門矢士と一緒に楽しそうにしていたのは、或る意味において、今朝の一番の見所でもあると云えなくもない。