任侠ヘルパー第十一話=最終回

フジテレビ系。木曜劇場任侠ヘルパー」。第十一話=最終回。
脚本:古家和尚。演出:西谷弘。
力のあった者が力を奪われ、賑わいのあった場所が閉鎖に追い込まれ、安住の地を得ていたはずの人々が行き場を見失う。様々な老人たちの姿を描いてきたドラマ自体が、あたかも時の移ろいゆく中で老いてゆくかのような寂しさを深めていた物語の流れの後半に、信じ難い程に唐突に思える形で、最後で最大の大乱闘の局面が出来した。これをどう見るか。
娯楽性に富んだテレヴィドラマとしての盛り上がりの必要性という条件を別にすれば、やはり、このドラマが様々に描いてきた「介護」という問題の難しさを最も激しく表現するための場面だったと見るべきだろう。
任侠ヘルパー翼彦一(草なぎ剛)は、介護に関する法と制度を整備している厚生労働省の役人でさえも介護の理想像や将来像を描けていないという事実に憤った。意味も解らないで制度を作っているのか?と。だが、実のところは、介護は一体どうあるべきなのか?という問題の難しさを、翼彦一自身が現場で直に経験して、充分に知っている。老人を虐待する孫や老人から金を騙し取る詐欺師でさえも最良のヘルパーであり得る場合をも彼は見てきた。法というものは一般的、抽象的、形式的でなければならないが、法によって規定され規制されるべき介護の問題は一般論で抽象的、形式的に総括できる話ではない。
あの大乱闘は、そのことの極度に激しい表現だった。劇中の報道番組が表現したように、詳しい事情を知らない第三者の眼には事件の善悪は単純明快に映る。大勢の老人たちを人質に取って介護施設「タイヨウ」の跡地に立て籠もる五名の暴力団員と、老人たちを救出して暴力団員を逮捕しようとする警察。悪い奴等と、正義の味方。だが、吾等視聴者は真実が単純明快ではないことを知っている。なにしろ、人質に取られているはずの老人たちは任侠ヘルパー衆に盛んに声援を送っていたし、五名の逮捕が無事完了しつつあった瞬間に四方木りこ(黒木メイサ)が大勢の子分を率いて参戦したときにも喝采で迎えたのだ。これでは、何れが味方で何れが敵であるのかも判らない。法的な正義が何れにあるかは明白だとしても、眼前の生身の老人たちにとっての善は別の側にあるのかもしれないということだ。
老人たちが、この大いに盛り上がった戦闘にかなり興奮し、昔の武勇も思い出して元気になっていたのも印象深い。
この派手な戦闘の場面が今宵の話における一番の見所だったわけではない。むしろ、もっと心に残る見所が他に幾つもあった。一例を挙げれば、介護施設「タイヨウ」閉鎖の前夜、そこへ舞い戻ってきた大勢の老人たちのため、黒沢五郎(五十嵐隼士)が夕食を作ることを決意した場面。かつてカタギの世界では居場所を失った彼にとって任侠の世界こそが唯一の居場所だったはずだが、「研修」の場の閉鎖を受けてその本来の居場所へ帰ろうとしていた彼が、強面のスーツを脱ぎ捨て、雲龍図の刺青で覆われた広く逞しい背中を見せたあと、「タイヨウ」の制服の黄色いポロシャツをその上に着た一連の動作は、短気で乱暴でありながらも陽気で愛嬌のあるこの男の不器用な優しさをよく表していた。
和泉零次(山本裕典)についてはどう考えるべきだろうか。もともとは他の五人の任侠ヘルパー衆に先んじて「研修」として介護施設「タイヨウ」で働き始めたと思しい彼が、やがて介護の道に真の「任侠道」を見付け、五年もの間ヘルパーに徹していたわけだが、「タイヨウ」の騒動の中で暴力団員であることを自ら明かして追われるように去ったあと、そのまま鷹山源助(松平健)の側近として任侠の世界へ復帰してしまった。介護の道への名残は彼にもあるようだが、もはや介護の道には戻らないのだろうか。一つ云えることは、彼は既に介護の「任侠を知ってしまった」ことだ。園崎康弘(大杉漣)が早くも介護施設「タイヨウ」の再開を許された今、和泉零次も改めて選択を考えるのかもしれない。そういえば彼は、あの大乱闘の只中、警察に投げ飛ばされて倒された園崎所長をいたわっていたところを、背後から攻撃されて逮捕されたのだ。介護施設の所長とヘルパーとして過ごした五年間の信頼関係の深さ、強さを感じた。再開の暁には、戻るほかないのではないのだろうか。