曲げられない女第二話

日本テレビ系。水曜ドラマ「曲げられない女」。第二話。
脚本:遊川和彦。演出:南雲聖一
このドラマの主人公、荻原早紀三十二歳(菅野美穂)を、視聴者はどのように見ればよいのだろうか。現実世界における日常の社会生活において云いたくとも云えないでいることを思い切り云ってくれる痛快な代弁者とでも見るべきだろうか、それとも、云いたくとも云えないでいることを思い切り云ってしまうと果たしてどのようなことになってしまうのかを実証する反面教師とでも見るべきだろうか。
何れにせよ、第二話の時点で早くも、余りにも救いがない。このような救いのなさ加減をかつて何かで見たことがある…と不図思って、思い出したのは「演歌の女王」。あれも遊川和彦脚本ドラマではなかったか。
しかし別の意味で救いがないと見受けるのは、主人公の元恋人である若き弁護士の坂本正登(塚本高史)の、登場人物としての造形のされ方だろう。劇中、あの手この手で彼を徒に悪人のように描き上げているかに見えるのだが、実のところ、彼は確かに自らの手で正義をなすことこそ諦めてはいたものの、決して正義をなすこと自体を諦めたわけではなく、別の弁護士を紹介するという形で、別の選択肢を提案することによって現実との間に何とか折り合いを付けようとしただけだ。彼に助けを求めた彼の友人はその選択肢に怒っていたが、そんなもの、怒る方が子ども染みている。なぜ別の弁護士では駄目なのか。それとも、彼の友人は己のために彼が弁護士事務所を解雇されることを待望していたとでも云うのか。
そもそもの前提として、弁護士は正義の味方ではあり得ないということを踏まえないことには話がおかしなことになる。どんな凶悪犯でも、殺人犯でさえも弁護して罪を軽くしてみせるのが弁護士の仕事ではないか。
もちろん、正義も信念も理想も捻じ曲げてでも己の「生活」を防衛しようとするとは何と男らしくない卑怯な小物であることか!と非難するのは簡単だろうが、このドラマを視聴している者の大半は多かれ少なかれ彼のように常に苦渋の選択を強いられつつ不正をなさないようにして辛うじて生活を営み得ているはずだ。それを真向から批判し非難し否定し去るかのようなドラマの造り方をするのは如何なものか。
ことに昨今のように、国民の圧倒的多数の支持を背景にした権力者が己の金銭上の不正を誤魔化そうとして法や司法を捻じ曲げようとしているときに、放送会社が報道番組においてそのことを大して追及しようともしない反面、ドラマにおいては庶民のささやかな生活を叩こうとするのは、何とも無茶な話ではないだろうか。叩く方向を間違っている。
己の信念を貫くべく、己を曲げられない人生というのは麗しいかもしれない。だが、それが麗しくあり得るのは当の「己」が絶対的に正しいときに限られる。不正をなしていて、しかもそれを不正と認めないような人が己を曲げず、逆に法や司法を攻撃し始めたなら、そのような「曲げられない」人生は断じて許されてはならないはずだ。あたかも、歩行者を蹴散らすようにして歩道上を一直線に走り抜ける自転車乗りが許されないものであるように。
とはいえ念のため強調しておけば、荻原早紀は間違いなく正しく、坂本正登の弁護士事務所が契約関係を結ぼうとしていた会社は間違いなく悪事をなしていた。フィクションならではの単純明快な事例が描かれたわけなのだ。だから、もしドラマ制作者が「現実世界には何の関係もない純粋フィクションとして制作したのだ!そのようなものとして楽しめ!」と云うのであったなら、確かにそのようにするのが正解だろうとは思う。ところが、番組公式サイトを確認してみれば、制作者は現実世界への所謂メッセージ性を、教育的、啓発的な意図をこめて制作していることが判明する。劇中の台詞に「世の中も人も悪くなるばかり」みたいなのがあったようだが、強気を助け弱きを挫いてばかりいる報道機関が世の中も人も悪くしているのかもしれない可能性については考えたこともないのだろうか。