NHK咲くやこの花第三話

NHK土曜時代劇咲くやこの花」。第三話「嘆きつつ」。
いよいよ大江戸小倉百人一首歌かるた腕競が始まった。そして二つの大きな事件があった。一つは、江戸の深川の漬物屋「ただみ屋」の娘こい(成海璃子)が、裏の長屋に住んでいる貧しく偏屈な若い浪人、深堂由良(平岡祐太)に対して密かに抱いている初の恋心に、こいが師と仰いでいる町の女流の国学者、「嵐雪堂」主人の佐生はな(松坂慶子)が気付いたこと。
もう一つは、嵐雪堂はな先生が、こいの話に聞いた深堂由良の言には嘘があることを読み抜いたことから、こいは、深堂由良と歌かるた腕競とに対する自身の思いについて改めて思い直し、逆に思いをさらに深めることができたこと。
前者は、胸中に秘めていた恋心、「忍恋(しのぶこい)」が不覚にも顔色に表れてしまい、見抜かれてしまったということだが、これについては、小倉百人一首の愛好家であれば直ぐに想起できる歌がある。平兼盛の名歌「しのぶれど色に出にけり我恋は物や思と人の問迄」に他ならない。これは平安時代村上天皇の治下、天徳四年三月三十日に禁中で開催されて後世の範と仰がれたと伝えられる晴儀、「天徳歌合」において「忍恋」の題で詠まれ、壬生忠見の「恋すてふ我名はまだき立にけり人しれずこそ思ひ初しか」と番えられたもの。甲乙付け難い名勝負であり、判者をつとめた左大臣藤原実頼は、判定に困った挙句、帝の御気色を窺えば、帝も判定こそ下されなかったものの、密かに「しのぶれど」を口ずさんでいるのを察知し得たので、平兼盛を勝としたのは有名な話。
こいの母そめ(余貴美子)の営んでいる漬物屋の名は「ただみ屋」で、壬生忠見の名を連想させるのに対し、こいのライヴァルしの(寺田有希)の父である信助(佐野史郎)の鰻屋の名が「金森屋」で、平兼盛の名を連想させるが、劇中のこいの「行方も知らぬ」「忍恋」は、壬生忠見の「恋すてふ我が名はまだき立ちにけり」よりは、平兼盛の「しのぶれど色に出にけり我が恋はものや思ふと人の問ふまで」に近い。
後者については、深堂由良の側の変化も見ておく必要がある。
浪人である彼は、何も財産のない中で唯一、深堂家の家系図を大切にしていた。先祖は堀川左大臣藤原顕光。父は深堂好忠で、弟に深堂行平がいる。父の好忠は「梶緒藩」の家老だったが、幕閣中の某大名が悪事を働いていることを知ってそれを正そうとしたところ、当の大名はその罪を全て深堂好忠に着せた上で死に追いやった挙句、梶緒藩をも取り潰すよう仕組んだ。無念の父のため仇討を企てる深堂由良にとって、深堂家系図は父の形見であると同時に、己が間違いなく深堂家の者、侍の家の者であることの証明(アイデンティティ)でもあり、ひいては、浪人としてどんなに貧しくしていても侍としての精神を持ち続けるための根拠でもあった。
ところが、余りにも貧しくて家賃も払えないでいた彼は、何とか家賃だけでも支払うべく、なけなしの銭を得るため、唯一の財産である家系図を売るしかなかった。自棄酒をあおるべく寄っていた店で、柄の悪い侍衆を「それでも侍か!」と非難したのは、侍としての誇りの根拠を失ってもなお、侍の精神を保ち続けたい必死の思いの、意地の表れだったろう。侍でありながら侍らしからぬ行動を取る彼等不良連中の姿は、侍でありたいと切望する彼を苛立たせたのだ。しかし不良三人組に喧嘩を売って無事に済まされるはずもなく、彼は殴られてボロボロになって、こいに遭いに、こいと初めて言葉を交わしたあの河原へ来た。
他方、こいは、嵐雪堂はな先生の意見に動揺しながら深堂由良を訪ねて詰問し彼の真の狙いを知って失望したあと、彼への恋心を断ち切り、大江戸かるた腕競にも出ないことを決意したが、心は揺れ動き、定まることを知らないでいた。まさしく曾禰好忠の「由良のとを渡る舟人かぢをたえ行衛もしらぬ恋のみちかな」の歌の意そのままに。腕競の深川地区予選会で戦ったとき抱いた百人一首歌カルタへの情熱と、深堂由良への思い。あのときの、これまで経験したこともなかったような熱い情を想起するとき、こいが思い浮かべた歌が藤原義孝の「君がためおしからざりし命さへながくもがなとおもひぬる哉」だったのも味わい深い。恋心を知ったあとに恋心がさらに深まりゆくものであることを詠んでいるからだ。
夜の河原で再会した二人は、それぞれの新たな思いを互いに告げた。深堂由良は、こいが腕競の深川予選会を真剣に戦い抜く中で見せた「凛として気高く美しい」眼差しに、町娘らしからぬ「侍の眼」を見出していた。今や彼は、こいの戦う姿を見詰めることで、己の内なる侍の精神を燃え上がらせて、己を持してゆきたいと考えるに至った。こいもまた百人一首と恋心によって己を発見したのだ。
ところで。深堂由良の父の名は深堂好忠。もちろん「由良のとを渡る舟人かぢをたえ行衛もしらぬ恋のみちかな」の曾禰好忠に因んでいる。由良の弟、深堂行平の名が在原行平に因んでいるのも云うまでもない。在原業平朝臣の兄にあたる中納言行平の歌は「立別れいなばの山の嶺におふるまつとしきかば今かへりこむ」。深堂好忠は梶緒藩の家老だったと説明されたが、この「梶緒」というのも、「由良のとを」の歌における「かぢを」に因んでいるのが明白だ。
なお、「かぢを藩」というのは恐らく実在しないと思われるので正確にはどのような字を書くのか知らないが、「由良のとを」における「かぢ」は「楫」であり、関連する語として「梶緒」があるので、今ここでは「梶緒藩」と書いておく。
今回の新たな登場人物として、小町の母しま(濱田万葉)の友、いく(小林きな子)と、おき(立原麻衣)があった。「いく」は、和泉式部の娘、小式部内侍の歌「大江山いくのゝ道のとをければまだふみもみず天のはしだて」か、それとも、源兼昌「淡路嶋かよふ千鳥のなく声に幾夜ね覚ぬすまの関守」か。
他方、「おき」の典拠はさらに候補が多い。保元の乱の勝者として有名な法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通が、奇しくも、のちに保元の乱に敗れて畏れ多くも讃岐に遷されることになる崇徳院天皇の位にあらせられたときの内裏歌合に際して海上遠望の題で詠んだ名歌「和田の原こぎ出てみれば久堅のくもゐにまがふ奥津白波」か、それとも、『古今和歌集』撰者の一人、凡河内躬恒の「心あてにおらばやおらむ初霜のをきまどはせるしらぎくの花」か、それとも、源三位頼政の娘、二条院讃岐の「我袖はしほひに見えぬおきの石の人こそしらねかはくまもなし」か。まさか案外、「誰をかもしる人にせむ高砂の松もむかしのともならなくに」の藤原興風の名に因んでいる可能性もないとは云えない。
第三話の題「嘆きつつ」は、右大将道綱母が自著『蜻蛉日記』にも記した「歎つゝひとりぬるよの明るまはいかに久しきものとかはしる」。
ともかくも、このドラマの語り手をつとめる百人一首の撰者「京極黄門」藤原定家(中村梅雀)が云うように、次週以降の「行方も知らぬ」展開を、「焼くや藻塩の身も焦がれつつ」楽しみに待つのみ(権中納言定家「こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつゝ」)。