日本書紀と延喜式祝詞と手越祐也

世に「八百万の神々」と云われる。かなり広く親しまれている語ではあるが、この表現の根拠と云うか出典は何だろうか。今試みに、手許にある日本書紀を適当に眺めてみれば、巻第二「神代下」第九段の本文に「八十諸神を召し集へて」という語が出てくる(日本古典文学大系日本書紀上』p.134)。「八十諸神」は「やそもろかみたち」と訓まれる。大きく桁が違う。同所の一書第一には「八十萬の神」が出てくる(同書p.148)。「やそよろずのかみたち」と訓まれる。同所の一書第二にも「八十萬神を領ゐて、永に皇孫の為に護り奉れ」とある(同書p.152)。他方、巻第十九「天國排開廣庭天皇 欽明天皇」十三年冬十月に、物部大連尾輿と中臣連鎌子の言として「百八十神を以て、春夏秋冬、祭拝りたまふことを事とす」と記される(同『日本書紀下』p.102)。「百八十神」は「ももあまりやそかみ」と訓まれる。
一瞥した限り、日本書紀には「八百万」が見当たらないが、よく読めば出てくるのだろうか。他方、平安時代に編纂された法令集とも云うべき「延喜式」に収録された祝詞には容易に見つかる。例えば「六月の晦の大祓」に「八百萬の神等」とある(日本古典文学大系古事記 祝詞』p.423)。「やほよろづのかみたち」と訓まれる。主に神事における祝詞で使用された語だったと解してよいのだろうか。確かに「やそ」よりも「やほ」の方が発音し易い。
ところで、日本書紀巻第五「御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇」十年九月に「たごし」という語が出てくる(日本古典文学大系日本書紀上』p.247)。「たごし」の「た」は「手」と書く。民が「列を作って手から手へ渡して」運搬を行うことを云うらしい。不図思うに、あの手越祐也の「てごし」という姓は案外この古代の語に由来するという可能性はないだろうか。