テストの花道&寄り道第四回&第五回とカント美学
NHK教育の、受験生のための(そして大人にも為になる)番組「テストの花道」(及び関連番組「テストの寄り道」)。先々週土曜日の朝九時二十五分から再放送(及び九時五十五分から放送)された第四回と、先週土曜日の第五回を録画しておいたのをまとめて見た。
第四回の課題は「仮説を立てる」。司会の城島茂から「だんだん出来る顔になってきたね」と褒められていた真田佑馬は、最初の出題に対する解答を考えていたとき、この番組の第二回「正確に情報を読み取る」で取り上げられた思考の道具「列挙ムシ」を用いようとしていた。当人は「まさかの応用」と自嘲していたが、結局、仮説を立てるためには使用できる要素をなるべく多く列挙して可能な道を探索する必要があるわけだから、方向性としては間違ってはいなかったろう。むしろ、既に手に入れた武器を活用してみようとする精神が素晴らしいと云えよう。
第五回の課題は「比べる」。冒頭、「美人」と「かわいい」とを比べて違いを述べよ!という出題があり、これに対して真田佑馬は、美人については「顔がととのっている/大人っぽい/クール/大人しい」と述べ、「かわいい」については「さわやか/ほんわかしている/行動が見ててたのしい/明るい/見てていやされる」と述べていた。なかなか具体的であると云うか、微妙に生々しい。野澤祐樹は美人について「大人しい」と述べ、「かわいい」については「子どもっぽい」と述べていた。簡潔だが、もう少し具体性が欲しい。
この比較論の出題を通して番組側が云いたかったのは「比べたものの違いを表すことこそ比較の入口」ということであり、例えば、雰囲気と容姿それぞれに関して比較した場合にはそれぞれ一体どのような違いが見えてくるのか?とか、見た目に関して比較することも必要だが、言葉として見た場合には全く別の比較もできるのではないか?(「美人」は名詞で、「かわいい」は形容詞)とか、比較を行うにあたっての項目を見付け出すことによって説明文を整理してゆくことを提唱しているのだ。
これは要するに、言説の構造化ということだろう。
かの十八世紀ドイツの哲学者カントも、美学芸術学の名著『判断力批判』の第一部第一篇第一章の第十六節において、具体例を挙げて論じている。引用しよう。「教会たるべしというのでさえなければ、我々は或る建物の中に直観を直接楽しませるものを幾つも配置できたことだろう。人間〔の形姿〕というのでさえなければ、我々は(ニュージーランド人が入れ墨でするように)或る形姿をあらゆる渦巻きや軽快だが規則的な線条で飾ることもできたことだろう。また人間であっても、男性さらに軍人というのでさえなければ、それはもっと優美な目鼻立ちを持ち、顔の輪郭はもっと快く柔和であっても良かったことだろう」。渦巻の文様は純粋に形態だけを見れば美しいが、それが身体に刺青として描かれるなら、刺青自体が犯罪に関連のある不快なものであるから不快であり、美しくはない…ということだ。
美や芸術についての世間の言説は大概は、論理的には未整理のままの感想を形にしただけで投げ出されてしまうので、人々の間に混乱と反発を惹起し、ゆえに「美や芸術については人それぞれ感じ方が違うのだから議論をしても仕方がない」等と安直に片付けられ、挙句の果てには「美や芸術には言葉は要らない」という思考停止にまで陥る。だが、言説の混乱は大抵、言説の構造性を見落としてしまうことから生じている。議論の末に結論を得られるかどうかは定かではないにしても、少なくとも議論の体をなし得るように、言説の交通整理は必要だ。カントに云わせれば、「どちらもそれなりに正当な判断をしてはいる。一方は感官から得たものに即して判断し、他方は観念の内にあるものに即して判断しているのである。この区別を使えば、『君は付随美に準拠しているが、彼が準拠したのは自由美なんだ、君がしているのは応用趣味判断なんだが、彼は純粋趣味判断を下したんだよ』という言い方で、美をめぐって趣味の判定者たちの間に起こる紛争を調停することができる道理である」(以上の引用には『芸叢』第十三号所収の金田千秋教授による見事な訳を使用した)。