ドン★キホーテ第二話

日本テレビ系。土曜ドラマドン★キホーテ」第二話。
意外にも傑作の香を発した今宵の第二話。先週このドラマについて少々否定的な意見をここに書いたが、今はその言を撤回しておく。
先週の第一話に続けて今宵の第二話が明らかにしたのは、この物語の取り組んでいる課題の一つに「家族の再生」があるということだが、ここにおいて見落としてはならないのは、そもそも家族とは自然そのままではあり得ないということではないだろうか。
鮫島組の組長の鯖島仁(高橋克実)の姿をした京浜児童相談所児童福祉司の城田正孝(松田翔太)は、城田正孝の姿をした鮫島仁に対して繰り返し述べている。児童相談所の仕事の重要な一つは、家族を再生させることであるということを。なるほど確かにそうだろう。例えば虐待されている児童を守るためには、家族から児童を隔離するのが近道ではあるが、それは真の解決ではないに相違ない。家族そのものを修復しない限り、児童の福祉を真に実現することにはならないだろう。
だが、そもそも家族とは何であるのか。直接の血縁で結ばれた核家族のみが本当の家族であるのか。近代国家はそう考える。核家族のみを自然本性に基づいた真の家族と定めて、法を拵えている。ところが、夏目漱石のような明治の文豪はそのことに家族の崩壊を嗅ぎ取っていたのだ。
家族の結束というのは本能のみに基づいた人間関係であり、ゆえにその維持のためには何の努力も要らないものであるのか、それとも、それは社会の縮図であり、暗黙の契約を前提した法人であって、その維持と発展のためには構成員の努力を要するものであるのか。江戸時代の将軍家や大名家は明らかに後者で、家臣団をも含めた巨大な家族として営まれていたわけであるし、大体、明治の頃までは「家族」というのは一般にそういうものだったと云えるのではないだろうか。
このことを考えるとき、鮫島組という「一家」の存在には意味がある。フィクションにおける暴力団は一般に一種の疑似家族として描かれることが多い。現実がどうであるかは知らないが、テレヴィドラマ等では大概そうだ。このドラマにおける鮫島組もそうだ。今回の話の前半、鯵沢組と鮫島組との抗争の只中、鮫島組の若い衆の一人、ヤス(山根和馬)を「兵隊」呼ばわりした鯵沢組の幹部に対し、鯖島あゆみ(内田有紀)は「今の言葉、取り消しな!ヤスは兵隊なんかじゃないよ。わたしらの家族だよ!」と凄んだ。鰺沢組が表面上は一般企業になり済まして経済活動を営み、成功して利益を上げている最新鋭の暴力団であるのに対し、鮫島組は商店街の用心棒をつとめて生きている昔ながらの絶滅危惧種のヤクザでしかない点が、この一言によって鮮やかに表現された。同時に、城田正孝の姿をした鮫島仁にとって「一家」を守るための死闘が人生そのものであることを物語った。
抗争の結末は実に楽しかった。鯖島仁の姿をした城田正孝は、鰺沢組によって人質に取られていたヤスを釈放してもらうため、この卑劣な敵に土下座して謝罪した。姿は鮫島仁であっても中身は城田正孝であるから、そもそも暴力を振るう度胸なんかあるはずもない。味方を守るためには謝罪するしかない。城田正孝にとってはそれが当たり前の行動だが、これは鮫島組の皆にとっても意外な展開だったし、何よりも鰺沢組の連中にとってはとんでもない番狂わせだった。狡猾な鰺沢組は、鮫島仁に暴れさせることで鮫島組を窮地に陥れる魂胆だったのだが、鮫島仁…の姿をした城田正孝の、この意表を突く行動によって鰺沢組の悪巧みは失敗に終わってしまったのだ。鮫島組の皆は、この鮫島仁の、冷静で的確な判断に基づく勇気ある行動…のように見えた行動に、改めて惚れ直し、ますます「一家」の結束を固めた。
そして今宵の話の後半。児童相談所の仕事において、城田正孝の姿をした鮫島仁もまた、「家族」の問題に取り組んだ。ここに登場する家族は、直接の血縁で結ばれた核家族の坂本家。夫妻に男子二人兄弟の四人家族。この兄弟の弟にあたる十四歳の少年、坂本亮介(藤原薫)が自室に引き籠もったまま出てこない所謂ヒキコモリになっている件について母の坂本由美(村岡希美)が京浜児童相談所に相談に来て、城田正孝の姿をした鮫島仁が対応することになったのだが、実のところこの家族の抱える真の問題は、家族の構成員の皆が互いに対して無関心であり、もはや血縁と世間体と、同じ屋根の下に生活の拠点があるという事実のほかには何一つ、家族の意味を維持できていない点にこそあった。
この難問に、城田正孝の姿をした鮫島仁は実は何も考えず、何も手を打たなかったに等しい。問題を解決したのは幸運でしかなかったように見える。だが、鮫島仁は確かに問題の所在、問題の本質には気付いていたし、行動にも一貫性があった。
城田正孝の姿をした鮫島仁の取った行動は、坂本家の人々を「家」から追い出してしまうことだった。先ずは坂本亮介を、引き籠もっていた自室から出てゆきたくなるように仕向け、坂本家の豪邸からも彼が出て行ってしまったあとにはそのまま彼を街中に放置しておいた。さらにはその勢いに乗じて坂本家の全員を家の外に閉め出してしまった。
この余りにも無茶な行動には、想像以上の大きな効力があった。なぜなら、もはや家族であることの意味を維持できていなかった坂本家の人々がそれでもなお家族のようなものであり続けていたのは、血縁と世間体とともに、同じ屋根の下に生活の拠点があるという事実に負うところが大きかったと見受けるからだ。家族を維持するための努力なんか払うまでもなく、事実として家族であるのだ。だが、この事実を奪われたとき一体どうなるのか。家族を止めるのか、それとも家族の意味を問い直すのか。もはや家族ではないにもかかわらず家族であり続ける根拠を提供していた家族の居場所を鮫島仁に奪われ、家族の解体という現状に直面させられた坂本家の四人は漸く、互いの関係への不満、互いへの思いを率直に叫んだ。家族の再生への第一歩をなしたに相違ないと信じることができた。奇想天外だが、詩情があった。傑作になるかもしれない気配を感じさせた所以に他ならない。