仮面ライダーオーズ第四十五話
旅行の疲れから未だ充分には回復できていないのに出勤して、しかも予想外に忙しく、慌ただしく終わった一日。
ところで。
東映「仮面ライダーオーズ/OOO」。
第四十五話「奇襲とプロトバースと愛の欲望」。
先の日曜日の朝には奈良のホテルにいたので見ることができなかったが、家で録画しておいたのを昨夜、寝る前に見た。
今回も、今や「仮面ライダーオーズ」における一番の見所になったと云うも過言ではない後藤慎太郎(君嶋麻耶)の格好よさ以外のことを考えよう。
今回はメズール(未来穂香)が最期を迎えたが、前回のカザリ(橋本汰斗)の最期に見られたような哀しみや感傷性や詩情はなかった。
なぜか?その理由の一として、メズールもカザリも、倒され方に大した違いがなかったという点はあるかもしれない。仮面ライダーオーズ=火野映司(渡部秀)が紫のグリードの力を獲得した結果、余りにも強くなり過ぎて、もはや並のグリードの力では対抗し得なくなったのだ。グリードの生命の核をなすコアメダルを、わずか一枚だけでも破壊することができれば、それでグリードの敗北、オーズの勝利は決まる。そしてその破壊の手段を持つのは現時点ではオーズのみであり、手段は一つだけであるから、各グリードがどのような最期を迎えることになるのかは既に決まってしまっている。このような条件下に詩情を作り出すことは至難の業には相違ない。
だが、無論それだけではない。なぜならカザリも、ロスト=アンク(飛田光里/声=入野自由)が最期を遂げたのと同じ攻撃によって最期を遂げたが、それにもかかわらずロスト=アンクの最期には見られなかったような感傷的でさえある哀しみの詩情を生じたのだからだ。
重要なことは、メズールが己の生存をかけた苦労や苦悩の物語を持っていないことだ。否、苦労も苦悩もあったのかも知れないが、視聴者はそれを殆ど見せられていない。同じことはガメル(松本博之)にも云える。
反対に、アンク(三浦涼介)やカザリの苦難と苦悩は確り時間をかけて描かれてきた。アンクについては云うまでもない。カザリも、八百年前と今とでは世界が違っていることを早くから理解し、また、現代の世界にはグリードを泳がせて利用しようとするかのような、グリードにとっては甚だ迷惑な勢力が存在することをも早くに悟り、そうした苦しい状況下で一体どのようにして生き延びてゆけばよいのかを慎重に考え、計画し、行動してきた。カザリの苦闘の軌跡は、云わばアンクや火野映司の苦闘の軌跡と表裏をなす程だったと云うも過言ではない。カザリが時間をかけて慎重に築き上げた王国がアンクによってあっさり奪われてしまったとき、カザリが何を思ったか、そしてカザリが盟友だったはずのドクター真木清人(神尾佑)によって止めを刺されたとき、どんなに無念だったかを、視聴者は想像することができる。彼の最期に詩情が生まれるのは当然だろう。
カザリとは違って極度に出番の少なかったウヴァ(山田悠介)には、出番の少なさを補って余りある程の印象の強さがある。彼の着眼点の鋭さ、発想の面白さがこの物語を極めて味わい深いものにしてきたことは、かのバッタ型ヤミーの話を想起すれば自明だろう。メズールやガメルの復活がウヴァの力のみによるものであるのに対し、ウヴァの復活はアンクの協力なくしては可能ではなかったにせよ、ウヴァ自身の驚嘆すべき「執念深さ」に負うところ極めて大であり、その意味で彼自身が云うように確かに彼の「実力」によって成し遂げられたものだったと云ってよい。
このようにカザリもウヴァも、そしてアンクも、それぞれの仕方で生存への「執念深さ」を見せ付けてきたが、メズールはそのような情念を見せ付ける機会を殆ど持たなかったように見受ける。だからメズールの最期は化け物の最期にしかならなかったのだ。もちろん吾等は己の腕の上の蚊の最期にさえも憐みを抱くだけの想像力はあるが、それはその蚊の最期の姿に悲劇や詩や物語が「表現」されているからではない。