儒教・仏教・道教-東アジアの思想空間

今宵読み終えたばかりの書。菊地章太『儒教仏教道教-東アジアの思想空間』は、東洋の思想・宗教の捉え難いところを丁寧に解き解してくれていて、そこには流石に、中世フランスの宗教美術からカトリック神学を経て東洋の思想・宗教へ研究対象を拡大した著者ならではの、よい意味の相対化の視点が働いていて、実に面白い。
例えば、日本において仏教の行事として行われている彼岸や盆が、実は本来のインド仏教から見れば絶対にあり得ない程に異質の、むしろどこまでも儒教の思想と儀礼を継承した習俗であることを論じた箇所(140-146頁)には、特に驚嘆させられる。この問題を主題にしてもっと詳細に論じた書としては、菊地章太『葬儀と日本人-位牌の比較宗教史』がある。
日本人の生活には仏教だけではなく儒教道教も深層まで浸透していること、それどころか、受容してきた仏教自体もインド仏教からは遠く懸け離れたチャイナ式の仏教であること等を様々な形で指摘してはいるが、他方で、「日本はすぐとなりの中国から、じつに多くのものを学びつづけてきた。それでもはぐくんできた文化はおたがいかなり異質である」とも述べていて、「わかりあえるという幻想」を慎重に批判している点にも説得力がある(66頁)。
日本においては仏教キリスト教も全て(云わば八百万の諸神によって)自然崇拝のようなものへ造り変えられてしまうが(98-105頁)、そうした事態を、広く世界各地の各文化においてそれぞれの流儀で行われてきた当然の現象として捉えていると見られるのも、日本文化の「特殊性」を叩いたり持ち上げたりする類の俗流の文化論に決して与しないという意味で素晴らしく説得力がある。
天女には翼があるか?という問いを掲げて、西洋から東洋まで宗教美術を一挙に概観してみせる論の上手さには圧倒される(42-58頁)。
注目すべきは、チベットについての論。チベット仏教は、八世紀後半に仏教の国教化を考えたチベット吐蕃王国)の国王が、インド仏教碩学とチャイナ式の禅僧との間で論争をさせた上で、インド仏教の圧勝であることを認め、唐の文化を拒絶してインド文化を選択した結果として成立したものであり、ゆえにチベットがチャイナの支配下にあるはずがないことは歴史の真理に他ならないのだ(177-182頁)。

儒教・仏教・道教 東アジアの思想空間 (講談社選書メチエ) 葬儀と日本人: 位牌の比較宗教史 (ちくま新書) 道教の世界 (講談社選書メチエ)