旅行記一/鹿児島天文館

旅行記一。
台風の接近を考慮して鹿児島へ行くのを諦めていたので、特に早く起きるわけでもなく朝七時頃に起きて、何時もと変わりない朝食を摂ったあと、インターネット上の天気予報等を確認し、台風の進路や雨雲の様子を自分なりに検討した結果、目的地の天候に台風の影響は恐れていた程には大きくなさそうであると判断し、旅行の実行を決意。大急ぎ荷物をまとめたものの、残念ながら松山観光港行リムジンバスには間に合わなかったのでタクシーで移動。
松山観光港で往復券を購入して、「いろは屋」の「伊予あんぱん」を食べたあと、十一時三十分に松山を発って十二時四十分に広島港へ到着。この間、携帯デジタル音楽プレイヤーでは雅楽「青海波」やヨハン・シュトラウス2世美しく青きドナウ」のような水に因んだ曲を聴いていた。窓の外は快晴で空も海も青かった。
上陸したあとは広島港の直ぐ外に停車していた路面電車に乗車して、十二時四十九分に出発し、予想以上に時間を要して、昼一時三十八分にJR広島駅へ到着。窓口に行き、鹿児島中央駅までの新幹線の券を、できれば往復割引で購入したいと告げたところ乗車券の目的地を国分駅に設定した方が安くなるとの回答が来たので、それに従って往復券を購入。「新広島名物ポーク・ミルフィーユ・カツサンド」を購入して、二時二十九分発の新幹線に乗車。指定席が窓側ではなかったので景色を見るのを諦めて読書に集中。読んだのは『エロスとグロテスクの仏教美術』。書名に反して実は正統派の仏教美術研究の書。
夕方五時九分に鹿児島中央駅へ到着。快晴の空に一部、黒い雲のようなものが見えたのは、雨雲ではなく桜島の噴煙だったろうか。駅前には「若き薩摩の群像」と銘打たれた立派な記念碑があった。石造の塔で、それを台座にして多くの、薩摩の幕末明治の志士たちの銅像が配されてある。銅像の作者は中村晋也。三重県の出身だが、東京高等師範学校を卒業して鹿児島大学の教授となり、彫刻家として日展で活躍。日本芸術院会員、さらに文化功労者となり、文化勲章を受章した人。
五時半頃に路面電車に乗車し、天文館の停留所で降車。ここからホテルまでは近距離だったが、位置を正確に把握できていなかったので大いに迷い、六時十七分に漸くプラザホテル天文館に到着できた。繁華街の只中に位置しているので、把握してみれば実に分かり易い場所。
ちなみに天文館というのは特定の地域を指す地名ではなく、鹿児島中央駅の近くにある南九州最大規模の繁華街の全体を指す通称だそうで、その称は幕末の名君、薩摩藩主、島津重豪侯が設置した天文学研究所の通称に由来するらしい。
宿泊室に入って荷物を置いたあと、何となく持参し忘れたような気がしていたパソコンのマウスを確認したところ、やはり持参し忘れていたので、調達すべく直ぐに外出。天文館の商店街の北にある文具店で調達し得た。
次には夕食の店を求めて繁華街を歩き回り、一時間も迷った末に、ホテルの宿泊室内にあった料理店案内書にも載っていた記憶のあった吾愛人という店に入った。大いに繁盛していた。料理人が男前だった。黒豚の串焼一本と薩摩汁と玉子かけ御飯で充分に満足して店を出た。ホテルへ戻ってインターネットで検索してみれば、吾愛人は戦前までは割烹で、若竹と号していたそうだが、戦後に郷土料理店へ新装して再出発したそうで、驚くべきことに、吾愛人と命名したのは、鹿児島県立図書館長をつとめた椋鳩十。凄い話だ。しかし、たとえ椋鳩十の命名でなかったとしても、この店名は明治維新最大の偉人、南洲西郷隆盛の「敬天愛人」を連想させて、いかにも鹿児島に相応しい。もちろん椋鳩十はそれを意図していたろう。
この立派な料理店と提携しているらしい今回宿泊のホテルは、実は農場と食品工場を経営していて、地鶏も玉子も米も果物も野菜も自前で調達しているらしい。なるほど朝食付で宿泊を予約したのは正解だったようだ。
なお、今朝の出発前に心配していた台風十一号が沖縄を通過しつつある中、ここ天文館の辺は今のところ雨には見舞われていないが、夕方から夜にかけて桜島の火山灰が降っていて、地元の人々は灰を避けるための傘を差していた。