八幡浜市民ギャラリー河崎蘭香展/カンタータ全曲鑑賞完了

休日。朝に起きて、直ぐに寝て、起きたのは昼。昼食後に外出。
伊予鉄道の電車でJR松山駅へ行き、二時二十七分に特急列車で発って三時十六分頃に八幡浜駅へ到着。そこから徒歩で八幡浜市立図書館へ行き、図書館内にある八幡浜市民ギャラリーで今月十八日まで開催されている展覧会「生誕一三〇年記念-八幡浜が生んだ情熱の女流画家-河崎蘭香」を鑑賞。
河崎蘭香は明治十五年に生まれ、東京へ出て、明治後期から大正前期にかけて日本画家として活躍し、大正七年に逝去した人。寺崎広業の門人で、女流の美人画家として知られた。今回の展覧会には、東京大正博覧会出品画「花の便り」二曲屏風一隻をはじめ傑作も多く並び、なかなか見応えがある。
この画家については今のところ学術研究もなく、画風の変遷も明らかにはされていないように思われるが、今回の出品画の内、制作年の判る数点と雑誌の挿絵や表紙絵を基準にして、落款の様式の変遷を推測し、当時の日本画界における一般的な流行も踏まえるなら、河崎蘭香の様式史について、美人画花鳥画、それぞれの流れを見出してよいのではないだろうか。
美人画においては、当初は流石に寺崎広業とともに梶田半古の影響が色濃かったようだが、古画の学習にも熱心だったらしく、やがて、睫毛の豊かさによって強調される眼の大きさを特徴とするような、甘美で豊麗な美人の様式を生み出して、さらに色彩と線を明快にして装飾性を高めつつあった…という流れを見ることができる。
他方、もっと興味深いのは花鳥画における上達と深化。初期には、率直に云って稚拙だったようだが、美人画の脇に添えられた植物の描写は、次第に洗練され、充実し、優美なフォルムを具えるようになって装飾性を増したが、やがて美人から独立して制作された花鳥画においては、やや古風な明治の円山四条派に学び、深遠な空間表現をも実現し得た…という流れを想定してよいのではないかと思う。
もう少し長生きしていたら、美人画のみならず花鳥画においても名をなしたろうか?と思えてくるが、反面、せめてあと十年でも早く生まれていたら、もっと心から描きたい絵を描き得たのではないだろうか?と思わなくもない。
今回の出品画の中では《少女弄絃図》、《夕涼み》、《和楽之図》、《小督の局》、《雪中鴛鴦図》を私的に特に気に入った。
初期の《少女弄絃図》絹本着色一幅は、明治前期の洋風写実主義を志向した柔らかな表現で、大きな絃を何とか弾じようとしている少女の様子に優しい眼差しを向けているのが良い。
同じく修業時代の作と見受ける《夕涼み》は絹本着色一幅は、夕陽を画中に収めていないが、薄暗くなってきた空の下、沈みゆく太陽の光が水面に反映して輝いている様子を表現して、その「光線」の表現が、いかにも明治前期の日本画における洋風表現の流行をよく伝えている。
大正五年の《和楽之図》絹本着色一幅は、端午の節句を迎えた母子を描いている。若く上品な母は美しく幼い男児に小さな鯉幟を持たせている。男児の足元には喇叭の玩具があり、母子の背後には富士山を描いた屏風がある。男児の健やかな成長は帝国の将来の安泰に通じる。明治の女の、自然な愛国心の優美な発露と云える。
小品の《小督の局》絹本着色一幅は、中世の土佐派にでも学んだかと思しい古雅な表現を採っていて実に格調高いが、悲劇の美女の感情に迫ろうとした力作でもある。典拠はもちろん平家物語。暴君からの弾圧を逃れて隠棲しつつも、帝への敬意と愛を絶ち難い様子を、繊細に描いている。
花鳥画の中で最も心惹かれたのは《雪中鴛鴦図》絹本着色一幅。かなり古風にも見えるかもしれないが、技術の確かさを見る限り、初期の作品ではあり得ないし、最も円熟味があるとさえ見ることができる。多分、大正モダン時代に至ってから、そんな時流に逆行し、明治前期の古い円山四条派へ遡るようにして、幽玄な写実へ達したのではないかと想像される。
夕方四時四十分頃に会場を出て、三階から二階へ降りて、二宮忠八翁に関する展示を見たあと館を出て、商店街で二宮忠八翁生家跡の石碑も見てからJR八幡浜駅へ行き、五時間四十三分に特急列車で出立して六時三十五分頃に松山駅へ帰着。徒歩で道後へ戻った。
ところで。
ヘルムート・リリング指揮バッハ・コレギウムの演奏による大バッハ作曲カンタータ全集の鑑賞は第二百十五番まで聴き終えた。今は補遺の九曲(CD三枚分)を聴いているところだが、今宵中には全曲を聴き終えることになりそうだ。