仮面ライダー鎧武第四話

平成「仮面ライダー」第十五作「仮面ライダー鎧武」。
第四話「誕生!3人目のぶどうライダー!」。
インベスゲームがバトル等と呼ばれず「ゲーム」と呼ばれていることには明確な意味があると判る。ゲームは規則によって制御された戦闘であり、規制が撤廃されたとき出現するのは生の殴り合い、さらには殺し合いであり得る。国際スポーツ大会における観衆の暴動はその判り易い露呈であると見ることもできよう。規制を守ることは規制に守られることに等しい。
インベスの群の住まうロックシードの森で葛葉紘汰(佐野岳)が直面した事実とは、インベスゲームに潜んでいる恐ろしい本性に他ならない。沢芽市の若者たちを熱狂させるダンス集団群、ビートライダーズの人々が繰り広げるインベスゲームは、一つ間違えればインベスによる殺戮や破壊を惹起しかねない危険な遊戯であるし、アーマードライダー同士の戦闘に至っては人間同士の殺し合いでしかない。そのような恐ろしい本質は法によって予防され、ゆえに覆い隠されている。葛葉紘汰も「ルールの中で勝ち負けを競ってた」。しかるに今や、アーマードライダーの力を持つことの怖さ、インベスゲームの酷さを、明確にではないにせよ、微かに感じ取るに至ったのだ。
葛葉紘汰に恐怖を与えたのは、メロンのロックシードを用いるアーマードライダー斬月、呉島貴虎(久保田悠来)だった。ユグドラシルの重役の長子であり、幹部の一員として研究機関を統括している。
これは奇妙に思える。なぜなら沢芽市の若者たちにロックシードや戦極ドライバーを流通させている源流はユグドラシルであるとしか思えないからだ。インベスゲームの過熱の果てにアーマードライダーに変身する若者も出てくれば、あの謎の森への侵入者が相次ぐのは予め想定できていたろう。そうである以上、呉島貴虎の狙いは葛葉紘汰を退場させることでもなければ消去することでもなかったろう。狙いは多分、彼の言葉そのままではないだろうか。「戦いに意味を求めてどうする?答えを探し出すよりも先に、死が訪れるだけのこと」。力を獲得して戦闘に参加した以上は、意味を知らないまま戦え!ということ。換言すれば、意味を問うな!ということだ。
実際、この物語の舞台であり、主人公の居場所である沢芽市内の若者たちの社会は、不可解、理不尽に満ちている。なぜダンスをそのまま楽しめないのか。なぜダンスのための場所を奪い合わなければらないのか。なぜ場所の奪い合いが力の順位をめぐる競争と化しているのか。しかも、なぜダンス集団の競争がダンスではなくインベスゲームで行われるのか。物事を少しでも冷静に考える者であれば疑問に思うことだろう。誰もが「リテラシー」を具えて周囲を見渡し得るなら、この不可解で理不尽な体制に背を向けることだろう。それは難しくはない。なぜなら不本意なゲームが世界の全てではない限り、そのゲームから退場しても生きてゆくことはできるからだ。そもそも考えてみれば、葛葉紘汰自身が、一度はダンス集団「鎧武」から足を洗っていたのだ。そして彼はもともとインベスゲームの理不尽に付いてゆけないとも感じていた。
そんな葛葉紘汰が敢えてダンス集団「鎧武」に舞い戻り、インベスゲームにまで参戦したのは、「鎧武」の仲間たち、特に高司舞(志田友美)を助けたいからだったろう。目的は仲間への愛であり、ゲームに勝つことは手段でしかない。云わば勝敗という一点に集中しているわけではなかった。
そう考えるとき、呉島貴虎の言は極めて示唆に富んでいる。彼は、溺愛する弟の呉島光実(高杉真宙)が高等学校における学業を少々疎かにしているらしいことを心配して、「集中しろ!余計なことに気を取られるな。無駄なものを切り捨てることで、おまえの人生は完成されるんだ」と説教した。無駄の削減が規制の撤廃に通じるのは云うまでもない。安全性が撤廃されたとき、生命を賭した戦いだけが残る。
なるほど、葛葉紘汰は仲間への愛という「余計なこと」に気を取られていて、戦闘それ自体に「集中」してはいないし、ゲームにおける安全という「無駄なもの」を大切にしている。序でに云えば、仕事をしていても街中に困っている人があれば仕事を中断してでも手助けをせずにはいられない彼は、「無駄なもの」を抱え込み過ぎて仕事人として「完成」していないと批判されるのかもしれない。
皮肉なことに、呉島光実もその点では葛葉紘汰に近いらしい。「僕の人生は無駄だらけだからね」という彼の言は、兄の説教への静かな反抗だろう。その言に嘘はない。彼は今回、アーマードライダーに変身するための力を獲得するため、錠前ディーラーのシド(浪岡一喜)の前に己の財力を誇示したばかりか、ユグドラシル幹部候補生としての己の可能性をも突き付けて脅迫し、極めて強かに、戦極ドライバーと葡萄のロックシードを獲得した。その強烈な交渉力は、呉島家の一員であり呉島貴虎の弟である者ならではの威厳の表出であるとも見えるが、そのゆえに彼が兄と同じ道を進み得るとまで見てよいとも思えない。なにしろ彼は悩んでいたからだ。「辛いことも悲しいことも決して消えてなくなったりしない。だったら大切な人が傷付くよりも、自分が傷付いた方が良い」という彼の思いの内には、呉島家の一員としてその威光を借りて変身の力を獲得することの傷みが含まれているのではないだろうか。
ともかくも、呉島光実は三人目の(正確には四人目の)アーマードライダーとなった。葡萄と龍に彩られた姿から、DJサガラ(山口智充)によってアーマードライダー龍玄と名付けられた。