仮面ライダー剣

テレビ朝日系ドラマ「仮面ライダー剣ブレイド)」。第四十九話=最終回。
この驚異的な結末を一体どう評したらよいだろうか。
剣崎一真(椿隆之)が、人類を救い、しかも相川始=ジョーカー(森本亮治)をも救うため、敢えて自らもジョーカーと化して人間としての生を捨ててしまうという結末。これにより相川始は最後に勝ち残ったアンデッドではなくなり、バトルは継続せざるを得なくなり、現行の世界は白紙撤回されることを免れたのだ。だが、剣崎一真のこの自己犠牲は、相川始と栗原天音(梶原ひかり)との間の小さな幸福の生活を守ったとはいえ、相川始の精神に癒しえない欠如の感覚をも刻み込んだろう。しかも彼はそれを永遠に抱え込んで生きなければならない。何故なら彼はアンデッド(不死の者)だからだ。そして相川始が抱いているのと同じ欠如の感覚を、橘朔也(天野浩成)も上城睦月(北条隆博)も白井虎太郎(竹財輝之助)も広瀬栞(江川有未)も、恐らくは死ぬまで抱いてゆくことだろう。実に悲しく寂しくも恐ろしい解決だったのだ。
剣崎一真がこのような解決を図るに至ったという事実にはやはり驚きを禁じ得ないが、予想できなかったわけではない。むしろ、これまでの流れを踏まえるなら、唯一の選ばれ得る選択肢だったとさえ云えなくもなかった。剣崎は常に人々への愛のために戦ってきたが、相川始に対しても友愛を抱いていた。そして彼は常に自己犠牲的だった。そして彼は、仮面ライダーブレイドのキングフォームを使用し続けることによって十三体のアンデッドと融合し、もう一人のジョーカーと化してしまう危険な体質の持ち主だった。以上のことを総合して考えるなら、今回のこの解決こそが選ばれ得る唯一の道であるのはもとより明白だった。だが、誰がそれを望んでいたろうか。
この最終回を評するための適切な言葉を求めて、ここで古代ギリシアの万学の祖アリストテレスによる芸術批評の聖典、「詩学」を参照してみよう。その第六章。「悲劇とは、大きさを有して完結した崇高な行為の模倣であり(estin tragoidias mimesis praxeos spoudaias kai teleias megetos echouses)」、「憐みと恐れを通して、それらの情念の浄化を出来するもの(di'eleou kai phobou perainousa ten ton toiouton pathematon katharsin)」(1449b24-28)。
悲劇という語のこのような真の意味において、まさしく「仮面ライダー剣」は悲劇の英雄の物語として終結したと云えるように思う。
剣崎一真のあの選択を、彼以外の誰も望んではいなかった。相川始を救うための選択だったが、相川始自身はそれを望んではいなかったし、今なお納得してはいないはずだ。剣崎一真の不幸な事態に、相川始が納得するはずがない。それでもなお、相川始も橘朔也も上城睦月も白井虎太郎も広瀬栞も、そして視聴者も、皆これに納得しなければならないし、納得すべき理由がある。何故なら剣崎一真がそれを望んだのだからであり、しかるに皆の知る通り、皆の愛し見守ってきた剣崎とは、常にそのように自己犠牲的に生きてきた人間であるのだからだ。そのような、容易には癒し得ない恐れと憐みの情念の、最低限ギリギリの地点で辛うじて得る納得による解消が、悲劇の詩学における情念の浄化(katharsis)の意に他ならない。
実に深く悲劇的だったと評されなければならない。これを椿隆之が雑誌「特撮ニュータイプ」第十七号における森本亮治との対談で「ハッピーエンド」と表現し、森本亮治が自身の公式サイトの「亮治の部屋」の十一月三十日付の日記において「予想を裏切る結末」で「苦い」と記したのは、それぞれに物語を理解した上での、実に深い感想だったのだ。