大河ドラマ風林火山第四十五話

NHK大河ドラマ風林火山」。演出:清水一彦。第四十五回「謀略!桶狭間」。
駿河今川義元谷原章介)が桶狭間織田信長の襲撃を受け討死。織田信長の見事な戦略による勝利と云うべきだろうが、このドラマの描くところ、それに先立ち甲斐の山本勘助内野聖陽)が織田軍の出方を予測し、織田軍を勝たせるべく今川軍を何とか桶狭間へ向かわせるよう謀ったことが重要な意味を持った。今川義元織田信長に敗れたのであると同時に山本勘助に敗れたのであり、しかし山本勘助に対する今川義元の敗北は、むしろそれ以上に、今川家の「女大名」、寿桂尼藤村志保)の敗北だった。
桶狭間における敗北について報告を受けても決して泣き崩れることのなかった寿桂尼は、戦地より生き延びて戻ってきた家臣一同の前で、織田家より返されてきた今川義元の遺体を見ても毅然とした姿勢を崩すことはなく、ただ、吾が子に対し「悔しいか?さような顔をするでない」と何時ものように語りかけたが、皆の去ったあと一人それを抱き締めて悲しみに耐えていた。
今川義元自身は、上洛のため出発し桶狭間で討たれる直前、二つの喜びと一つの不安を抱いていた。喜びの一つは、天下に号令をかけるべく京へ向かいつつあること。これは亡き太原雪斎伊武雅刀)への、これまで守り育ててくれたことに対する感謝と、雪斎の夢を早くも実現しつつあることの誇らしさによって彩られていた。もう一つは、これに関連するが、雪斎が己の後継者とすべく大切に育ててきた松平元康(坂本恵介)が実に見事な働きを示し、早くも雪斎の期待に応えつつあること。だが、このことは同時に大きな不安をも想起させた。子の今川氏真(風間由次郎)が愚鈍であることは今川家の将来にとっては深刻な不安の種であり、「もし松平元康が吾が子であったならどんなにか安泰だろうか…」と思わずにはいなかったのだ。
今川家の将来に不安を抱いていた義元は子の氏真を遺して亡くなり、頼みの綱ともなるはずの松平元康は桶狭間の敗戦のあと、あろうことか織田家側へ寝返った。今川家の守護者として、寿桂尼は不安だったろう。
今川義元の敗戦は、甲斐においては、今川家を後ろ盾にする武田義信(木村了)と飯富虎昌(金田明夫)の敗戦でもあり、由布姫(柴本幸)と子の四郎=勝頼(池松壮亮)の勝利、そして何よりも山本勘助勝利でもあった。
それにしても、今回の今川家の敗因は、直接には、今川義元が大嫌いな山本勘助の進言の逆を行ったことにあるが、そもそも山本勘助の進言を直接に聞かされることがなければ敢えて反発することもなかったはずであると考えるなら、大切な軍の直前に敢えて今川義元の前に山本勘助を導いた庵原之政(瀬川亮)の責任も重い。しかも尾張の行軍中、今川軍の休憩場所として桶狭間を設定したのも彼だったのだ。かつて勘助の保護者だった庵原忠胤(石橋蓮司)の子として勘助とは永年にわたり親しく交際してきたからこそ勘助の進言に価値を見出したわけだが、それだったら何も選りにも選って桶狭間に休憩すべきではなかった。勘助の進言をよく聴いていなかったのか。今川義元が上洛すべく出陣を宣言したとき、今や重臣として主君の側近にいた庵原之政は「武者震いがいたしまする!」と述べた。父=忠胤の跡を継いで重臣となった今でも、初陣の頃のあの「武者震いがするのお!」「身震いがするのお!」の心を忘れないのは好ましいが、雪斎の親族とは思えない程に真直ぐに過ぎるとも云える。