歌姫最終話

TBS系。金曜ドラマ「歌姫」
脚本:サタケミキオ。主題歌:TOKIO青春(SEISYuN)」。制作:TBSテレビ。演出:坪井敏雄。第十一話=最終回。
四万十太郎(長瀬智也)は、戦前の東京の「ゆうさん」こと及川勇一として生きていた頃の記憶を取り戻したが、同時に、太郎として生きた十年間の記憶をも失わなかった。しかるに彼は、愛する岸田鈴(相武紗季)と一緒に土佐清水の映写技師として生きる道を選択せず、東京へ戻って及川美和子(小池栄子)と娘さくらとともに生きる道を選択した。それが本来の人生だからか?否そうではない。娘を見捨てるわけにはゆかないからか?無論そうだろうが、子どものために己を犠牲にしたと見るのが正しくはないのも云うまでもない。愛していた女と、愛する女。少し前まで彼は美和子を愛していた己の記憶を失っていたが、今はそれを取り戻している。そして現在の、鈴への愛をも失ってはいない。二つの融和し得ない記憶を同時に持つということは、二つの相互に比較し得ず優劣を付けようもない愛をも同時に抱くということに他ならない。鈴をも美和子をもともに愛しているのである以上、美和子を選択することは己の愛を犠牲にしたことにはならない。彼が直面していたのは、己の幸福と子の幸福との対立ではなく、二つの己の幸福であって、何れを取っても己が不幸になるわけではない。しかし子の幸福を伴う己の幸福を選択するとき、もう一つの幸福の道を選択しなかったことの喪失感は残るし、またその幸福を選択した場合にその幸福を共有するはずだった鈴を少なくとも己の力によっては幸福にすることができなくなる。太郎=勇一の苦悩の意味はそこにある。彼は幸福の道を選ばなかったのではない。
だから、この太郎と鈴の間の失われた愛が、はるかのちの孫の代、太郎と美和子の娘さくら(ジュディ・オング)の子アキラ(長瀬智也一人二役)と、鈴の孫ルリ子(相武紗季一人二役)との間で取り戻される…と見える物語の終結部分にしても、意味としては、不幸に終わった過去をやり直すというのでは決してなく、幸福だった過去の陰で封印されたままの、もう一つの幸福の可能性を探すものであるだろう。