斉藤さん第六話

日本テレビ系。水曜ドラマ「斉藤さん」
原作:小田ゆうあ『斉藤さん』。脚本:相内美生。音楽:池頼広。主題歌:観月ありさ「ENGAGED」。企画:東宝。第六話。演出:久保田充。
柳川正義(山田親太朗)は、傍若無人の振る舞いで街の人々に迷惑をかけていたところを天敵の「斉藤さん」こと斉藤全子(観月ありさ)に注意され、また何時ものように反発するのか?と思っていたら、意外にも素直に引き下がり、散らかしたゴミの後始末さえ拒否しない様子だった。急に改心したのか、それとも本来はその程度の悪ガキに過ぎなかったのか。ともあれ、彼よりも真に厄介なのは彼の母、市議会の柳川議員の令夫人、通称「柳川夫人」(高橋ひとみ)だったようだ。
世に「怪物親」と呼ばれる非常識な人々の存在が話題になるが、柳川夫人の場合、己の願望をそのまま実現できるだけの影響力(事実上の権力)を有しているので、怪物親になる必要さえないらしい。学校や幼稚園に理不尽な要求を執拗に突き付けるまでもなく、市議会や市役所や市教育委員会事務局を動かしてしまえば早いのだからだ。
もっとも、教育委員会事務局(教育庁)というのは、あくまでも教育委員会という会議の事務局であり、この会議の意思に支配されるべき組織であって、市議会議員や市長から直接の支配を受けるわけではない。真野若葉(ミムラ)の子、尊(平野心暖)に対する突然の校区変更という理不尽な仕打に関して斉藤全子が市役所に事情を聴きに行った際、応対した事務局職員(カンニング竹山隆範)は今回の事態が柳川議員からの圧力によるものであることを半ば認めてしまっていたが、そのようなことは、教育委員会事務局という組織の本性から云えば本来あってはならないことなのだ。
もっと正論を云うなら、そもそも一人の市議会議員が権力を有すること自体が、本来あってはならないことではないのか。なぜなら市議会議員が権力を行使できるのは議会という場での、多数決による議決という行為に限られるはずだからだ。議員一人には何の力もないし、あってはならない。一個人としての議員が力を有するということは、それ自体が、議会制民主主義の否定であり、延いては議員という存在の否定に他ならないからだ。
国会議員の中には、己等が都道府県知事や市町村長よりも偉いかのように勘違いしている人たちが少なくない。とんでもない見当違いだ。都道府県知事や市町村長は行政の長として様々なことを一人で決めることを認められているが、国会議員にはそんな力は認められていない。
ともかくも、柳川議員は心得違いも甚だしい愚劣な政治家であり、柳川夫人は似合いの令夫人であると云わざるを得ないから、彼等の横暴に対しては本来なら「斉藤さん」のように堂々文句を云えばよいだけなのだが、現実には、愚劣な議員による役所への不当な圧力が絶えないのである以上、三上りつ子(高島礼子)のあの慎重で堅実な戦い方が有効なのだろう。三上りつ子の戦略の上手さ、強さは、何十人もの主婦仲間、父兄仲間の結束力を見せ付け、「数」の力で迫ったところにある。選挙での「数」の勝利によってしか地位を獲得できない政治家の存在の方式を踏まえた見事な戦い方だ。
三上りつ子が「斉藤さん」に対し、「これで、ただではすまないわよ、あなたも、わたしも」とか云っていたのは、何時もの台詞に近いとはいえ、密かに共闘の決意の気配も感じさせて、なかなか凄みがあったと思う。