あしたの、喜多善男第七話

フジテレビ系(関西テレビ)。「あしたの、喜多善男〜世界一不運な男の、奇跡の11日間〜」。
原案:島田雅彦『自由死刑』。脚本:飯田譲治。音楽:小曽根真。主題歌:山崎まさよし「真夜中のBoon Boon」。第七話。演出:下山天
人の思いというものは、通じて欲しい相手に通じることもなく伝えることもできない場合もあれば、伝えようとも思わないときに何かしら通じてしまったかのように感じられる場合もある。
今宵の矢代平太(松田龍平)にとって、喜多善男(小日向文世)が、人生最後の十一日間を充実したものにしてくれている大切な友である彼のための土産として、なぜかキナコ餅を買ってきたのがそれだろう。
矢代平太は、家族を見捨てて亡くなった情けない父親に対して今なお怒りや憎しみの混じった愛情を抱いている。彼の思い出す父親は、大好物のキナコ餅を買ってきてくれる人だったようだ。或いは逆に、父親が何時も買ってきてくれたからこその大好物ではなかったか。しかし人は、強く生きてゆくためには多くのことを忘れ去らなければならない。恐らくは彼も、家族の崩壊という苦痛を忘れて、そして悪の道を歩もうとしてきたのだろう。だが、莫大な金銭をもたらしてくれそうな「よいカモ」として喜多善男が現れるや、彼の調子は狂い放しなのだろう。思い出の中の父親の、優しくも弱々しい背中、情けない後姿に、「喜多さん」が似ているからに他ならない。
矢代平太は、「喜多さん」に対して己の抱く複雑に捩れた愛情を誰にも知られたくはないだろうし己自身も認識したくはないだろうが、長谷川リカ(栗山千明)は既にそのことに気付いていた。しかし「喜多さん」は、そうしたことを何も知らないまま、そして今後も知らされることは一切ないのに、なぜか平太の思いを何かしらどこかで受け止めてしまったのではないだろうか。
矢代平太がキナコ餅を見て「なんで?なんで、これが俺の好物だって知ってんだよ」と驚いたのを、喜多善男は単に、好物に対する感激と思ったろうが、もちろん平太の本心はそんなものではなかった。キナコ餅は父親の思い出に結び付いている。亡くなった父親を想起させる「喜多さん」が、父親を想起させるキナコ餅を「土産」として買ってきたことで、大いに心動かされ動揺させられた。喜多善男を殺害するため隠し持っていたナイフを彼に捨てさせたのはその衝動だ。理性ではない。
キナコ餅で泣きそうになりながらも平静を装う矢代平太に、喜多善男は満面の笑顔で平然と云い放った。「あと四日ですよ」と。
この、常識的な人生では決してあり得ない奇妙な会話、噛み合わない心理の交差を描いた数十秒間は、視聴者をも動揺させざるを得ないものだった。実のところ今宵のこの第七話には盛り沢山の内容があり見所があったが、その最後を飾るこの数十秒間の場面によって一話全部の印象が塗り替えられる程だったとさえ思う。
とはいえ「ネガティヴ善男」(小日向文世一人二役)が鷲巣みずほ(小西真奈美)の前に姿を現した場面の衝撃も忘れ難い。その身体はあくまでも喜多善男その人。鷲巣みずほに会うべく会社に潜入したところを森脇大輔(要潤)に見付かり、必死の逃走の果てに疲れ果て、気を失って寝ていた隙に、喜多善男の内面のネガティヴ善男が、その寝ていた身体を借りて現れたのだ。
与田良一(丸山智己)が捜索の末にどこからか入手して杉本マサル(生瀬勝久)に見せた往年の三波貴男(今井雅之)の様子を伝える映像の中で心理学者としての三波貴男の説いていたところから考えるに、ネガティヴ善男というのは喜多善男の内面のあらゆるネガティヴな要素を集めた別人格に他ならない。ネガティヴな人物の内面のネガティヴな部分を集めて別人格を形成した上で、それを殺してしまえば、当の人物を非ネガティヴな人間に生まれ変わらせ、幸福にすることができるはずであるとの学説を、かつて彼は学界において主張していたらしい。面白い説だが、そうして作り出された新たな非ネガティヴな人間は、果たしてまともな人間であり得るのだろうか。他方、その新たな人間の「ネガ」(反転)としてのネガティヴ人格というのは、一個の自己としての同一性を備え得るのだろうか?と考えるに、それはあり得ない。なぜならそれは「ネガ」に過ぎないからだ。
実際、ネガティヴ善男の言動は一貫性がない点において一貫している。少し前まで物事の裏面を見ようとしない喜多善男に対し現実の暗さを改めて思い知らせようとしていた彼は、今回は逆に、これまで隠されてきた現実の本当の姿を知ろうとし始めた喜多善男の邪魔をするかのように、鷲巣みずほに対し余計なことを云わないよう要求した。
凄かったのは、喜多善男の寝ている隙にその身体を借りて姿を現した瞬間のネガティヴ善男の目付き。凍て付く程に冷たい目付きで鷲巣みずほを無言で見詰めていた。あれは喜多善男が決して見せない表情だ。
関連して、矢代平太が鷲巣みずほに対して放った「本当はもっとカワイイ人なんじゃないの?」という言は、図らずも恐ろしい真相を云い当てたものだったのかもしれない。なぜなら三波貴男と出会った当初の鷲巣みずほは、現在とは殆ど別人としか思えないからだ。
三波貴男や鷲巣みずほの過去をよく知る女、宇佐美広美(室井滋)という人物も、陰影に富んで迫力があった。悪い男に心惹かれるこの女は、髪型の印象も含めて、まるでビアズリーの画に出てくる女のようだった。