斉藤さん第七話

日本テレビ系。水曜ドラマ「斉藤さん」
原作:小田ゆうあ『斉藤さん』。脚本:福間正浩。音楽:池頼広。主題歌:観月ありさ「ENGAGED」。企画:東宝。第七話。演出:岩本仁志
公共の空間において、それを利用する者は他の利用者の権利を最大限に尊重することによってのみ、権利を最大限に尊重され得る。権利の保証は相互的だ。そもそも権利というものは、神秘的なものではなく法的なものであり、絶対的なものではなく相対的なものだ。規則を定めて一定の制限の下に権利を認める集団の中に、構成員として参加を許された者にしか権利はないのであり、ゆえに集団の掟としての法を破り制限を逸脱する者は権利を剥奪されて然るべきなのだ。そして己の権利を全うするために他人の権利を侵害することが認められてはならないのは云うまでもない。
こうしたことは本来、社会人であれば誰もが弁えていなければならない最も初歩的な法の感覚であり、この物語の主人公「斉藤さん」こと斉藤全子(観月ありさ)が日々主張していることは、子を守る親の責任とか愛情とかの問題を別にすれば、せいぜいのところその程度のことに過ぎない。だから本来「斉藤さん」の説に対しては、素直に肯く以外の反応なんかあり得ないはずなのだ。丁度、幼稚園児たちや高校生の女子たちが「斉藤さん」の率直な正義感に素直に共感したのと同じように。しかるに劇中の大人たちは(そして恐らくは少なくない視聴者たちも)「斉藤さん」のやり方に反発しかしない。鬱陶しいと感じてしまう人々が少なくない。このドラマの描く真の問題は、そのような誰にも制御できない全体性、「大衆性」の厄介さ加減にこそあるのだろう。
今回、スポーツクラブにおける一寸した怪我に因り短期間の入院をせざるを得なくなった「斉藤さん」が病院内で眼にしたのは、まさしく公共性の感覚を欠如した連中の、一方的な身勝手な権利要求の様子だった。その象徴が有閑患者連の親分とも云うべき岡部(銀粉蝶)だったのは見易いが、他方、岡部によって権利を侵害されようとしていた老いた宇田川(宮内順子)もまた厄介な人物ではあった。商店街で小さな洋服店を営んでいるこの老女と娘は、商売を何とか有利に進めるため、市議会議員の柳川(加藤雅也)の力を借りて市立学校等の制服を一手に引き受ける特権を得ていたのだ。
だから大部屋の病室から個室へ移る権利を柳川に横取りされても、何一つ文句を云えない。常に満室状態の個室に空きが出るのを何ヶ月間も待ち続けて、ようやく入れる順番を得たと云うのに。その間、岡部からの嫌がらせに耐え続けてきたのに。それなのになお、権利を横取りしたのが柳川議員である限り、文句一つなく隷従するほかに道はないと云うのだ。あの老女の苦しそうな様子だけを見ていたときは、岡部からの嫌がらせに耐えていた老女を気の毒に思っていたが、柳川議員に抗議をした「斉藤さん」に感謝するどころか文句を云うのみの老女の娘を見せられて、そしてそうした裏の事情の存在までも知らされた今、老女が岡部の嫌がらせに耐え続けていたのも、もはや自業自得だったとしか思えなくなる。
あの老女と娘の洋服店は、まもなく特権を剥奪されて倒産に追い込まれるかもしれない。でも、それは自業自得なのだ。所詮あの程度の愚劣な暴君に過ぎない柳川議員の力を借りて、大きな特権を享受してきた(換言すれば他の店も享受し得る権利を他の店からは剥奪し独占してきた)のである以上、同じ柳川の横暴によって逆に権利を剥奪される恐れもあり得ることを、そもそも覚悟しておかなければならなかったのだ。
ところで。「斉藤さん」の「親友」真野若葉(ミムラ)の夫、真野透(佐々木蔵之介)の程よく中庸を得た発言は、事実上、このドラマの見方に関する解説、案内役にもなっているようだ。