ハチワンダイバー第四話
フジテレビ系。土曜ドラマ「ハチワンダイバー」。
原作:柴田ヨクサル「ハチワンダイバー」(集英社ヤングジャンプコミックス刊)。脚本:古家和尚。音楽:澤野弘之。将棋監修:鈴木大介八段。協力:社団法人日本将棋連盟。プロデュース:東康之。制作:フジテレビドラマ制作センター。演出:松山博昭。第四話。
先週の第三話には爆発的な面白さがあったが、今宵の第四話にも手に汗握る興奮度の高さがあった。このドラマは間違いなく面白いと確信した。
物語の展開の上で特筆すべきは、主人公「ハチワン」こと菅田健太郎(溝端淳平)の必殺技「DIVE!!」の真の意味が改めて描かれたこと。
彼は(第一話から第二話の前半にかけては特に)それを自らの秘めていた特殊な才能のようなものと思い込み、ゆえにそれが思うようには発動しないことで苦悩した。しかるに(第二話の後半から第三話においては)最も重要な局面においてそれを発動させることを得た。それぞれの直前には何時も、かつて少年時代に恩師の鈴木歩人(小日向文世)から授かった教えを想起するという瞬間があった。これこそが「DIVE!!」の本質ではないか?ということを吾等視聴者は感じている。なぜなら九々八十一升の将棋盤に潜るということが手を読み切り読み抜くということであるとするなら、苦境を打開するための道は、今の己の囚われている読み方を超えること以外にないと思われるからだ。少年時代に恩師から授かりながらもそのときには理解できなかった教えを、改めて想起し、理解することで今の己を突破すること。それこそが先週の第三話までに描かれてきた「DIVE!!」の本質だったはずで、今週の第四話ではその本質が、一見「DIVE!!」に等しい戦い方を打ち出し得たにもかかわらず全く通用しなかった極限状態において、却って露出されたのだ。
将棋や碁というのは極めて知的な高士=文人=士大夫の遊戯であり、云わば詩や書画や琴や茶と同じく学知の領域に属するということを、踏まえておく必要があるのだろう。狩野派等の琴棋書画図の類を想起しておこう。
今回の戦いにおいて彼の想起した師の教えは、将棋には人生にも似て、読めない局面、しかも読めなくとも負けない局面があるということだった。
かつて新進棋士奨励会で棋士の高みを目指していた少年時代の菅田健太郎は、恩師から「棋士として生きる以外の人生を考えたことはないのか?」と訊ねられたとき、将棋のこと以外は全く考えたくはないと応えた上で、「自分の人生なんて将棋と違って読めませんから」とも云った。「将棋にも読めない局面があるぞ」と告げた師に、彼は「読めなければ、その将棋は負け」ではないかと反論したが、師は「そうとは限らん。またそこが人生と似ている」と笑んだ。当時の彼には理解できない禅問答のような言だったが、今の彼には、深い意義ある教えとして重く、力強く響いた。「そうだ…。今の僕には、何も読めない…。だから…だから…だから!あなたに読んでもらう!」。相手に読み抜かせることで、その読みの限界を読み抜くということだろうか。深い。
面白いのは、読みの限界ということが既に、今宵の話の冒頭で述べられていたことだ。「あなたは、自分が将棋というものを何%理解していると思ってるんですか?」と挑発したハチワン菅田に対し、文字山ジロー(劇団ひとり)は「5%位かな。残りの95%は未知だ。将棋というものは、出鱈目に深い」と応じた。この言に接して菅田は文字山の強さを知った。そして対局の途上には文字山は「将棋は一人では完成しない」とも云った。何れも、ハチワン菅田の最後の真の「DIVE!!」を予告するかのようだ。
それにしても、ハチワン菅田健太郎役の溝端淳平の気合の入った演技には見入らざるを得ない。局面の変化の中で、怒ったり、睨み付けたり、驚いたり、焦ったり、困ったり、滝のように汗を流しながら涙目になって泣き出しそうになったりして、生来の端正な顔をどこまでも崩しまくっているのが実に潔くて素晴らしい。中静そよ役の仲里依紗の、アキバの受け師からアキバのメイドへの激変とともに溝端淳平のあの顔が、このドラマの面白さの土台を確と固めている。角田吾郎(伊達みきお)と飛鷹安雄(富澤たけし)の二人組の如何わしさも心地よい。
ところで、明日の夜十時からの日本テレビ系「おしゃれイズム」に溝端淳平が出演するようなので、見逃さないよう録画を予約しておこう。