おせん第十話=最終回

日本テレビ系。ドラマ「おせん」。
原作:きくち正太講談社)。脚本:神ひとえ&高橋麻紀。音楽:菅野祐悟。協力プロデューサー:山口雅俊(ヒント)。プロデューサー:櫨山裕子三上絵里子/内山雅博(オフィスクレッシェンド)。制作協力:オフィスクレッシェンド。演出:南雲聖一。第十話=最終回。
最終回のこの話をどう評価すべきか。先ず押さえておくべきは、それが決して希望に満ち溢れた結末ではないということだ。二百年続く老舗の料亭「壱升庵」は、風前の灯である状態を脱し切れたわけではない。確かに今回は、壱升庵を廃業に追い込もうとした商事会社イェンプール社長の金池隆(内藤剛志)が大人しく引き下がったことで事件は解決した。でも、それで壱升庵の経営が楽になるわけではないし、借金がなくなるわけでもない。なぜならそもそも一握りの食通のみを客にしているこの店の経営は楽でありようがないのだからだ。
金池社長は「壱升庵に何の価値があるのか?」と疑問を呈した。これは壱升庵にとっては致命傷となる問いだろう。これと極めて似た問いとして「多額の税金を投じて大学や博物館や美術館や図書館を維持することに何の価値があるのか?」と云うのがあるだろう。
壱升庵の女将「おせん」こと半田仙(蒼井優)は「つなぐ」ということを力説していた。だが、「文化」とでも云うべきものの記憶と経験と資料を過去から受け継いで後世へ伝えてゆくことは必要である…という主張に、人々はどこまで賛成するだろうか。総論には賛成でも各論には反対!という局面も、少なからずあるだろう。学問や芸術に何等の興味もなく何一つ価値を見出せないと信じる人々の中には、大学の文学部や国公立の美術館や図書館なんか、何時なくなっても全く問題ない!と思う者も多いことだろう。病院がなくなったら誰もが困るが、美術館がなくなっても困る人は少ないのだから、そういう絶滅危惧種は勝手に絶滅すればよいのだ!というのが、このドラマにおける金池社長の信念なのだ。「壱升庵に何の価値があるのか?」という問いの含意はそういうことだ。
彼の信念を裏付けるのは、彼の長男、金池亮(小林廉)の味覚が異常を来たしているという現実だ。幼少から化学的な食品しか摂ったことのない亮少年には、壱升庵の美味の料理を食ってもその味を感じ取ることができない。しかし金池社長はそれを「時代」の変化の結果であり、「仕方ない」ことであるとしか思っていなかった。古来の真や善や美が世の多くの人々に感動を与えないような時代が到来したことの象徴として、この少年がいるのだ。
半田仙の「つなぐ」論が、どうして金池社長の心を動かし得たのか。亮少年の味覚の異常性を悲しんだからか?おかしいではないか。亮少年の味覚の異常性を、金池社長は初めて知ったわけでもなく、むしろ予て把握しておきながらそれを時代の趨勢として受け止め、自身も「美味なんかに血道をあげるのは愚かなこと」と常々主張していたのではないのか。それが、半田仙の「つなぐ」論を聞いて急に考えを変えたのはどういうことなのか。今宵のこの最終回を解釈し評価する場合の難問がここにある。
ともあれ、「よっちゃんさん」こと江崎ヨシ夫(内博貴)の、このドラマ世界における役割が、最終回において最も輝かしく明確に発揮されたことは注目に値する。彼は最初から余所者(所謂「他者」)として壱升庵に遭遇し、やがて壱升庵に深く潜り込み、その神髄にまで触れながらも、結局は余所者としてそこを去った。しかし単なる余所者ではなくなった。彼は壱升庵を去ったのちも日々そこへ通い、竹田留吉(向井理)や長谷川健太(奥村知史)等のような壱升庵の住人たちと、今なお仲間として交流し、壱升庵の精神を外部の世界へ伝えてゆくことだろう。余所者として壱升庵に住み込み、その神髄にまで触れながらも最後まで余所者として生き続けたからこそ可能になった道であり、これまでのこの物語における彼の生を顧みれば、この上なく自然な帰結であると理解できよう。