侍戦隊シンケンジャー第十三幕

東映侍戦隊シンケンジャー」。
第十三幕「重泣声」。脚本:小林靖子。監督:竹本昇。
今回の主役はシンケンジャー中の女子二人組、シンケンピンク白石茉子(高梨臨)とシンケンイエロー花織ことは(森田涼花)。特にシンケンピンク茉子の、侍になるために捨ててきたはずのことに対する微かな未練が描かれた。何に対する未練か。良妻賢母になること、幼稚園教員になること、そして女の子として生きること等への未練に他ならない。
シンケンレッド志葉丈瑠(松坂桃李)は幼少より既に「侍」として生きていて、従って彼にとっての迷いは「侍」として生きるか否かにはなく、あくまでも他の四人を「侍戦隊」の家臣として引き受けてゆくべきか否かにあった。逆に云えば、彼には「侍」として生きる以外の選択肢がないのだ。その点が他の四人とは違う。シンケンブルー池波流ノ介(相葉弘樹)には歌舞伎役者として生きるという道があり、シンケングリーン谷千明(鈴木勝吾)には普通の男子として生きるという道があり得る。実際、千明は少し前までは普通の男子として生きてきたわけで、それゆえに他の誰よりも「侍」としての修業が足りていない現状にある。彼が侍戦隊として未熟であるかに見えるのは、能力が足りないからでもなければ努力が足りないからでもなく、単に、これまでの少年時代を普通の男子として生きてきた所為で、「侍」としての修業に費やした歳月が余りにも短いからに過ぎないと解すべきだろう。
シンケンピンク茉子はその点で千明とは違う。なぜなら茉子は、当人が云うように、幼時より「侍」になるべく修業をしてきた所為で普通の少女としての楽しみを殆ど知らないで生きてきたらしいからだ。茉子の未練というのは、要するに、往年のテレヴィアニメ「アタックNo.1」の主題歌の歌詞に云う「だけど涙が出ちゃう。女の子だもん」ということだろうか。だが、千明が表明する不満が主に封建的な主従関係に対するものでこそあれ、普通の男子として生きることへの未練を示すわけではないのに比較するとき、茉子は何時も余りにも未練がましく、余りにも弱いように感じられる。ここには何かしら「男は前線に出て戦うべく、女は銃後を守るべし」とでも云ったような思想が潜んでいるようにも思われる。無論そういう思想もあってよい。だが、このドラマではその設定において既に侍戦隊の五人中二人を女子が占めているのである以上、女子も男子も対等に前線に出ることを当然としているのであって、「女の子だもん」というような弱音が劇中に描かれるのは相応しくない。
逆に「女の子だもん」という思いを描きたいのであれば、女子が「侍」になることの意外性と、その意外性を覆してでも女子が「侍」にならざるを得なかった特殊な事情を描く必要があったろうし、当然その場合には、女子は五人中一人にしておくべきだったろう。既に半数が女子であるというのに、「だけど涙が出ちゃう。女の子だもん」も何もないだろう。結局、男子三人に比して女子二人に魅力が足りないので物足りないということだろうか。