仮面ライダーディケイド第十七話

東映仮面ライダーディケイド」。
第十七話「おばあちゃんの味の道」。脚本:古怒田健志。監督:田村直己。
先週も書いたように、やはり九つの仮面ライダー世界をめぐる旅人、仮面ライダーディケイド=門矢士(井上正大)にとっての「カブトの世界」は、小野寺ユウスケ(村井良大)にとっての「アギトの世界」のようなものだったように思われる。なぜなら門矢士は、これまでのどの世界よりも「カブトの世界」において身近な人々に親しみを感じていたと見えたし、何よりも彼は、どこかにあるはずのもう一つの「カブトの世界」の英雄、天道総司その人が乗り移ったかと思える程に、この世界の戦い方を吾がものとしていたからだ。否、既に天道総司を凌ぐ格好よさがあったと感じた者も少なくはなかったろう。
世界を侵略しつつあるワームを退治するための組織かと見せかけてその実は逆にワームの組織に他ならなかったZECTの本部に、仮面ライダーカブト=天堂屋ソウジ(川岡大次郎)とマユ(菅野莉央)の兄妹を助けるべくZECT隊長の仮面ライダーザビー=弟切ソウ(川岡大次郎)を倒すため現れたときの門矢士の言葉は、まるで天道総司の再来とも云うべく、「カブトの世界」の物語の見事な要約であり得る。録しておこう。
「おばあちゃんが云っていた。つゆの味は目で見ただけでは判らない…てな。見かけだけで騙されるな。」「この世に一箇所だけ、たとえ世界の全てを敵に回しても、家族の帰りを待ってる場所がある。そして、この世に一人だけ、たとえ世界の全てを敵に回しても、家族のために戦う男がいる。この男は、誰にも声が届かない世界で、孤独に耐えながら、みんなを守ってきた。誰より強い男だ。同じ顔をしているが、おまえはこの男の足元にも及ばない。虫ケラだ。」
天堂屋ソウジと同じ顔をしたワーム=弟切ソウは「黙れ!もはやクロップアップは無力化された。この世界は俺のものだ!」と言い放ったが、門矢士は微塵も動じることなく「どうかな?俺は全てを破壊する!」と宣告した。予て自称預言者の鳴滝(奥田達士)から「全てを破壊する」と非難されてきた門矢士は、今この「破壊者」であるということを自身の本質として受け容れて、人々を苦しめる者たちへの破壊者として自身を定義付けたかのようだ。そして「きさま、一体何者だ?」という問いに門矢士は待望の決め台詞で返した。「通りすがりの仮面ライダーだ!憶えておけ!」と。
門矢士の格好よさは「カブトの世界」において一つの頂点を極めたかのようでもある。だが、同時にこの世界には、門矢士をも凌ぐ傑物がいたと云わなければならない。おでん屋「天堂屋」の老いた女将、「おばあちゃん」(佐々木すみ江)に他ならない。世界で唯一人、「おばあちゃん」だけは知っていた。仮面ライダーカブトがこの世界の味方であることを。世界中の人々が(ZECTの情報操作によってか)仮面ライダーカブトを世界への敵と思い込まされ、恐れていた中で。
ZECT隊員の中には人間もいた。アラタ(牧田哲也)はその一人であり、常々弟切ソウの戦い方、ことに仮面ライダーカブトへの理不尽なまでの敵視には疑問を感じていたと思しい。当然だろう。弟切ソウにとって真の標的は断じてワームではなく人間である以上、ワーム退治を志してZECTへ入隊したアラタにとって弟切ソウの狙いは納得できるはずがなかったのだ。そのことを漸く察した彼は、弟切ソウに反発したが、弟切ソウから虐待を受けて追放され、負傷のまま光写真館へ駆け込んだ。その後は多分、事件解決までの間、光写真館内でユウスケと光栄次郎(石橋蓮司)に傷の手当てをしてもらったり飲食を提供されたりしながら休養をとっていたことだろう。彼等三人で茶を飲みながら談笑する姿が目に見えるようだ。ユウスケは門矢士のことなんか心配してもいなかったろう。なぜなら彼は門矢士を信頼しているからだ。
そう考えると、天堂ソウジにとっての「おばあちゃん」と門矢士にとってのユウスケは少し似ている。ユウスケは茶を飲んで寛ぎ、「おばあちゃん」は天堂屋のオデンの味を守り続ける。
他方、海東大樹(戸谷公人)は今回も絶好調。物語には何の影響も与えないところで大活躍を見せた。クロップアップで動き回る仮面ライダーカブトに喧嘩を売った際には仮面ライダーイクサ=名護啓介(加藤慶祐)を召喚して「その生命、神に返しなさい」と云わせ、云わば武力攻撃のみならず言葉攻めをも試みていたのだ。
一点、考えておくべき問題がある。天堂マユの正体がワームであるとすれば、ワームではない本物の天堂マユが存在していたこともあるのか?という問題だ。この問題を解くためには、かの「仮面ライダーカブト」における天道総司水嶋ヒロ)の実の妹、日下部ひより里中唯)のことを参照しなければならない。ひよりは、人間としては生まれることを得ず、ワームとしてしか生まれることのできなかった生まれながらのワームであり、その意味で決して人間の記憶と形姿の簒奪者としてのワームではなく、ワームとして生まれながらも人間として育った「唯一無二」の妹だった。ワームではあっても偽者ではなく、世界に唯一人の本物なのだ。だから天道総司は、全てのワームの退治を標榜しつつも、己のこの妹だけは、世界を敵に回してでも守り抜かなければならないと考えたのだ。
天堂マユにも同じような事情があった可能性があるが、もちろん、同じような事情がなかった可能性もある。だが、本物が亡くなってその簒奪者としての擬態ワームのみが生きている場合に、その存在を「唯一無二」と認めることはできるだろうか。恐らく本物が「未だ物心も付かない」幼時に、同じく「未だ物心も付かない」ワームに記憶と形姿を簒奪されて亡くなり、代わりにその擬態ワームが唯一人の本物として育てられ、簒奪者としての自覚なんかあるはずもないまま生きてきた場合を想定できるかもしれない。
何れにせよ、天堂マユが「唯一無二」であることの傍証として、「おばあちゃん」が云っていたことを提出できよう。「おばあちゃん」によれば天堂マユの心身には天堂屋のオデンのつゆの味が隅々にまで染み渡っているのだ。唯一人の本物の天堂マユとして永く育てられてきたのであれば、確かに本物であるほかないだろう。