県庁の星

帰途に串揚げ店で夕食。帰宅後、テレヴィを点ければ二〇〇六年公開の織田裕二主演の映画「県庁の星」を放送していて、暫く見ていたら意外に面白くてそのまま見てしまい、見終えたあとは眠くなったので寝て、起きれば既に土曜日の朝(ゆえに土曜日に記之)。
フジテレビ系。金曜プレステージ「県庁の星」(「アマルフィ 女神の報酬」公開記念 織田裕二傑作選)。
見るつもりは全然なかったのに、見れば意外に面白くて、そのまま最後まで見てしまった。物語の基礎にある発想は、「改革なくして痛みなし」「痛みに耐えて頑張れ」等と煽られて国民の大半が無邪気に盛り上がることのできた所謂「構造改革」の時代の思考をよく反映していて、その意味で、やや大袈裟に云えば「時代」をよく映していると見ることができるが、反面、あの時代の主潮流だった「官から民へ」思考の正反対をゆく要素が物語の核を占めてもいて、そこがこの話を今なお鑑賞に堪え得るものにしていると云えるのかもしれない。
一応、表面上の話としては、県庁職員(織田裕二)が民間企業との人事交流研修事業により街のスーパーマーケットに派遣されたことから、役所と民間との違いに驚き、民間の厳しさを思い知らされつつも、役所に欠けていることをそこから学び、同時に、公務員としての己の管理能力を活かしてその民間企業の危機を救い、官民で連繋しながら世の中を善くしてゆこうと決意する…と要約できるかとは思う。
だが、主人公が民間から学んだものとは、具体的には何だったろうか。劇中にも「民間のノウハウ」という語は出てきて、実際、官民協働等に関する論議では必ずのように「民間のノウハウ」という語が使用されるかとは思う。だが、劇中の主人公が民間企業での研修を通して学んだのは、採算性を尊重すること、客に機嫌よくしてもらうこと等だったが、それを「民間のノウハウ」と称することは適切ではないだろう。なぜならそれらは既に役所の「ノウハウ」でもあるかと思われるからだ。多くの地方自治体は一方において、所謂バブル景気のとき以来、民間企業並のサーヴィス向上を求められ続けているはずだし、他方、不況下の財政難の中、ことにあの夕張ショック以降は、行財政改革の波の中で各種の監査体制も強化され、収支の状況も厳しく点検され、不採算部門の改廃も断行されて(博物館のような「社会教育施設」にまでも採算性を求める始末!)、今や下手すると民間企業以上に厳しい節約を心掛けているのかもしれないのだ(民間に必要なことは金を儲けることであって節約することでは必ずしもないが、役所には金を儲ける道がなく、節約すること以外に能がないとも云える)。
街のスーパーマーケットに研修に来て間もない頃の主人公は、店長相手に「採算性は二の次だ!」と主張していた。これは民間企業では到底あり得ない出鱈目な主張だろうが、役所の中ではそれなりに正しいのだということも理解しておく必要がある。例えば、公立学校が採算性を優先し始めたら、富裕ではない家庭の子どもたちは高等学校どころか下手すれば中学校も小学校さえも卒業できなくなるかもしれないからだ。それを自由競争の結果として肯定し歓迎するのか(現今の日本国民の大半は歓迎しているわけだが)、それとも自由競争を阻害する閉塞状況と見るのか。
序でに云えば、世に「政府は大きくあるべきか?小さくあるべきか?」の二者択一が盛んだが、「小さな政府」が選択される場合に最初に切り捨てられそうになるのが文化や教育であるのも何とも奇妙なことだ。自由競争というのは経済に関する概念であって文化や教育に関する概念ではない。国粋保存は国家の生命線であり国威発揚に国民文化は不可欠であるのだから、「小さな政府」も文化政策は手放せないはずだ(…と過激なことを云ってみる)。