曲げられない女第三話

日本テレビ系。水曜ドラマ「曲げられない女」。第三話。
脚本:遊川和彦
このドラマにおける坂本正登(塚本高史)の位置は、敢えて大胆に譬えるなら、近隣の諸国にとっての日本の位置に近いのかもしれない。ことさらに悪役として表現することで疑念や批判や非難の矛先を全てそこへ向けさせようとしているとしか思えないからだ。「我死すとも、いい友」の「友」を描くにあたり、その反対物を拵えておけば確かに話は早いに違いない。
だが、葬式におけるあの罵倒は、殆ど、葬式の現実を知らぬ者の言掛りでしかない。諸外国における葬式がどういうものかは知らないが、少なくとも現代の日本における一般的な葬式では、死者に最も近い肉親の立場の者が喪主という名の主催者として、最も忙しく働かなければならないことになっているから、喪主や遺族に代わって僧侶や神官や弔問客を接待する(劇中の彼のような)者の存在は、実は有り難いはずなのだ。全員が同じように悲しんで落ち込んでいたら葬式は成り立たない。
真の友であれば、大変なときに一緒にいて然るべきだ!というのも、確かにそうでありたいものかも知れないが、余りにも空想的な話だ。専業主婦の長部璃子(永作博美)が何日間も家を留守にして荻原早紀(菅野美穂)の傍にいてやることができたのは、義母から邪魔者扱いされているのみか夫からも実子からも相手にしてもらえず家庭内に既に居場所がないからであるし、あの気持ち悪い警察署長が職場を何日間も留守にして荻原早紀の傍にいてやることができたのは、警察庁の高級官僚の御曹司である上に当人も警察官僚候補であって、怖いもの知らずの地位にあるからだ。だが、もし脚本家が、あくせく働く庶民よりも、母親から毎年数千万円の小遣いをもらったり検察に圧力をかけて捜査を捻じ曲げようとしたりできる者(遊川和彦脚本「女王の教室」によれば、そのような「幸福」な地位にある者は日本国民の六%しかいないらしいが)の方が人間として上等であると信じているのであるなら、ここで一庶民が文句を云っても仕方がない。視聴を止めるしかない。