NHK咲くやこの花第五話

NHK土曜時代劇咲くやこの花」。第五話「来ぬ人を」。
江戸の深川の漬物屋「ただみ屋」の娘こい(成海璃子)と、隣にある鰻屋「金森屋」の娘しの(寺田有希)との関係が、しの自身によって、平安時代村上天皇の治下、天徳四年三月三十日に内裏で開催されて後世の範と仰がれた晴儀、「天徳歌合」における壬生忠見「恋すてふ」と平兼盛「しのぶれど」の対戦にたとえられた。第一話のとき以来、多くの視聴者が予感し続けてきたに相違ない関係がここに来てついに確と表れたのだ。
このことの含意は深かった。かの名勝負に敗れた壬生忠見は、落胆の余り食欲を失ってついには亡くなったとも伝えられる(ただし契沖が早くから指摘していたように、これは実は後世の作り話で、史実ではないらしい)。真剣な勝負において人は己の生命を賭して戦うものであり、情けで勝を譲るとか負けるとか云う選択肢などあり得ないことを、二人は各々の心に誓うことができたからだ。
注目すべきは、大江戸小倉百人一首歌かるた腕競、深川之部から日本橋の本選へ進出すべき代表選手を決める決勝戦で両名が死闘を繰り広げた際、こいは「由良のとを」の札を決して逃さなかったばかりか、しのが何としても逃したくなかったはずの「しのぶれど」の札をも、一瞬だけ早く取ってみせたことだ。こいが敢えてそれを狙っていたのは間違いない。勝ち抜くための道として、これは間違いなく正しい。これを機に、しのは調子を崩して大敗を喫したのだからだ。まるで壬生忠見が(伝説によれば)平兼盛に敗北したあと落胆の余り食欲を失ったように。
他方、「ただみ屋」の裏の長屋に住んでいる貧しく偏屈な若い浪人、深堂由良(平岡祐太)は、己の心に何時しか生じていた変容を自覚させられていた。自覚させたのは、こいが師と仰いでいる町の女流の国学者、「嵐雪堂」主人の佐生はな(松坂慶子)。嵐雪堂はな先生は、こいとの決別を心に誓っていた深堂由良に対し、仇討のためには死んでもよいという彼の決意は、こいと出会ってのちも何一つ変わってはいないのか?ということを問いかけた。何と意外なことにも、藤原義孝の「君がためおしからざりし命さへながくもがなとおもひぬる哉」ではないが、恋を知ったのを機に、己の生を永らえたいと感じ始めていたのは、こいばかりではなく、彼の側でもあったのだ。
こいは、己が死闘を繰り広げることになるはずの深川之部の決戦に、深堂由良には是非とも見に来て欲しいと願ったが、深堂由良は、侍ならぬ町娘こいの幸福を思えばこそ決別を決意したのである以上、もはや己には係わりのないこと!と云い放ち、見に行く気のないことを告げていた。しかし彼は、かつて昌平坂学問所の教授として名を知られた佐生嵐雪の娘、はな先生の言葉によって己の本心に気付かされ、ついに決意し、こいの真剣勝負の場へ赴いた。まるで軍師の如く策をもめぐらして圧勝した愛する乙女の強い眼差しに、彼は再び己の理想とする侍の精神を見たろうか。
愛しい由良様は来てくれるのか来てくれぬのか、こいの焦がれる思いをも連想させる第五話の題「来ぬ人を」が、和歌の神様、権中納言定家卿の歌「こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつゝ」に因んでいることは今さら云うまでもない。
なお、日本橋の豪商、「百敷屋」呉服店の若旦那、順軒(内田滋)の今週の替え歌は「浅漬の蕪大根鬆が出れど余りて気の毒わたしが買はむ」(劇中では「買おう」と発音)。これはもちろん参議等の「浅茅生のをのゝしのはら忍れどあまりてなどか人のこひしき」のパロディ。
ともかくも、このドラマの語り手をつとめる百人一首の撰者、「京極黄門」こと権中納言藤原定家卿(中村梅雀)が繰り返し云うように、次週以降の「行方も知らぬ」展開を「焼くや藻塩の身も焦がれつつ」楽しみに待つのみ(「こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつゝ」)。