新番組=Q10第一話

今宵からの新番組。
日本テレビ系。土曜ドラマQ10(キュート)」。第一話。
冒頭、この物語の主人公、高等学校三年生の深井平太(佐藤健)の通っている学校の校長、岸本路郎(小野武彦)は、夜の街のゴミ捨て場でQ10前田敦子)を見付け出したとき、「こんな世の中、大嫌い」と云った。彼はそれが実はロボットであるとは知らず、まだ生きている人間が捨てられているかと思い込んでいたのだ。だが、この「大嫌い」の語はそうした直接の意味を超えて、かつて深井平太と久保武彦(池松壮亮)の二人が「世界」の破滅を密かに企てたときに抱いた思いとも奇妙に響き合うかもしれない。
とはいえ老いた校長と若過ぎた二人とはそれぞれの憎しみの対象において正反対でもある。深井平太と久保武彦は、自分たちにもその周囲にも辛い思いを強いるこの「世界」を嫌い、それをなくしてしまおうとしていたのに対し、泥酔のゆえに本心に誠実になっていた岸本校長は、Q10をゴミ捨て場に捨てて何か都合の悪い事実を消去してしまおうとした連中がいるということ自体を嫌ったのだからだ。云わば、前者は嫌いな「世界」を「リセット」しようとし、後者は「リセット」できないことをも「リセット」しようと考える者のいる「世界」に反感を抱いている。
深井平太と久保武彦が消去してしまいたいと考えたこともあった「世界」とは、一体どのような世界であるのか。その一端を象徴するのは、深井平太の飼っていた魚を死なせてしまったときの深井家の人々の行動と心理だろう。(1)死んだ魚と、新たに買ってきた魚とは別の生命であるばかりか、そもそも種類も異なり、色や模様も違い、飼い主であれば一瞥で違いを見抜けてしまう。世のあらゆる存在、ことに少なくとも生命のある存在には「替え」がないことをよく表している。さて、(2)深井家の父と母と姉は、弟の平太がこの異変に気付くだろうこと、そして問題化するかもしれないことを恐れながらも、この異変を隠蔽して、あたかも何もなかったかのように振る舞い、誤魔化そうとした。対する深井平太は異変にはもちろん気付いていたが、あたかも何も気付いていないかのように振る舞った。
失われたものは取り戻せないのに、あたかも取り戻せるかのように偽装して平然と前進し続けてゆく世界というのは、確かに居心地の悪い「世界」であるかもしれない。
だが、深井平太も久保武彦も今はそんな「世界」も「俺の街」もまんざら捨てたものではないと感じていて、滅亡して欲しくないと考えている。深井家の父と母と姉が水槽の中の変化を隠そうとしたのは、悪事を隠したかったからだけではなく、無論それもないわけではないが、むしろ心臓に病を抱えた平太に「死」のことを考えさせたくなかったからであるし、平太が何も気付いていない振りをしたのは、波風を立てたくなかったからだけではなく、無論それもあるが、むしろ家族の優しさを無にしたくはなかったからだ。山本民子(蓮佛美沙子)の正体に同級生の誰もが既に気付いていながら誰もが気付いていない振りをしていることの理由について、久保武彦は同級生の冷たさと優しさと両面があることを述べたが、確かに「世界」には優しさもあるだろう。
だが、「世界」には優しさもあるのであるなら、なおのこと、冷たさに直面したとしても黙って絶望するよりは、或いは人知れず不満を表現するよりは、もっと明確に声を出して行動を起こして、助けを求め、或いは救いの手を差し伸べてみた方がよいのではないのか。声を出したところで事態は何一つ解決しないかもしれないが、救いが何もないわけではないかもしれないし、何も行動しなかったことを老いてから後悔するよりはマシだ。まだまだ若いつもりの豪快な老女、小川しげ(白石加代子)はそう考えている。
深井平太が藤丘誠(柄本時生)と一緒に校庭の中心で助けを求めて叫んだとき、影山聡(賀来賢人)をはじめとする同級生の皆が遊び半分で合流して一緒に天空に向けて「SOS」を訴えたのは、「世界」が、様々な偶然の出会い、重なり合い、繋がりによって思わぬ展開を惹起するものであることをよく表していたと云える。
なかなか意味の濃い第一話だったと思うが、これと同じく木皿泉の脚本による二〇〇五年の傑作「野ブタ。をプロデュース」に比較して抒情性が少し足りない感もあるのは、深井平太の抱える問題が桐谷修二(亀梨和也)の問題に比してやや漠然としているように感じられるからだろうか。関連する問題として、佐藤健は顔では亀梨に勝っている(と私見では思う)が、物語の語り手としての声とその表現力では負けているように思われる点もある。