瑠璃の島

日本テレビ系-土曜ドラマ瑠璃の島」。第七話。
藤沢瑠璃(成海璃子)と島袋さなえ(小西真奈美)との関係が殆ど親友同士のように親しくなっている。さなえ先生の教室には小学六年生の瑠璃のほか一年生の暁(内田流果)も加わり、一段と和やかになった。だが、鳩海島の小さな世界は今、大いに荒れようとしていた。暁を里子として迎えた自治会長の新垣治衛(平泉成)と妻の佳枝(市毛良枝)との関係は、暁が実は治衛の実の子であるという事実を治衛の親友の自治副会長の宮園壮平(塩見三省)が洩らしたことで深刻に悪化したし、また鳩海島の人々が里子を大々的に募集していることに疑問を抱いたジャーナリスト野々村(高杉亘)が島にわざわざ乗り込んで来て全島民に対し問題を突き付けたことで、島の全体が将来の展望を見失い、迷い、惑い始めたのだ。しかもそうした中、台風による事故で米盛照明(小日向文世)が逝去。この不慮の事故死は島民たちを惑いから解き放つのかもしれないが、晴れやかな解決ではあり得ない。
ジャーナリスト野々村という登場人物が、いかにもジャーナリスト流の人物像を示している。彼は型通りの中途半端な正義感のようなものばかり振りかざし、予め事件を断罪して眼前にある事実を誠実に見詰めようとはしない。自身の誤解を容易には解かない。解けない。新聞記者をも含め大方ジャーナリストはそうしたものだ。悪い奴ではないが、頭が悪い。今回このドラマで野々村が問題化しようとしている里子の問題にしても、仲間勇造(緒方拳)・仲間恵(倍賞美津子)の夫妻と瑠璃との間の実の親子以上の幸福な関係を見るなら、決して単純には「島民のエゴ」批判は当らない。島袋さなえはそう考えたのだろうし、恐らく小学校長の小浜学(岸部一徳)の「木を見て森を見ず」の言も、そのような認識に立っての思いを表現したものだろう。野々村の問題提起に接したときの斉藤茂(賀集利樹)と中嶋美月(井川遥)の反応はその意味では興味深い。両名とも、鳩海島で子を産み育てることを心から望んではいるが、「島の維持のため子どもが必要である」という「島民のエゴ」論を聞かされると流石に不快感を禁じ得ないと云うのだ。それはそうだろう。