仮面ライダー響鬼第43話

テレビ朝日系“スーパーヒーロータイム”ドラマ「仮面ライダー響鬼」。細川茂樹主演。四十三之巻「変わらぬ身」。
従来「仮面ライダー響鬼」の魅力として主人公ヒビキ(細川茂樹)の「大人の余裕」を挙げる人々は多かったが、思うに今朝の第四十三之巻以上にそれを上手く描き出した話があったろうか。弟子としての修業を始めた二人の少年の様子をヒビキは確と見詰めた上で、意外に出来のよい安達明日夢栩原楽人)に対しては厳しく接して一層の向上を求め、心身ともに弱く出来の悪い桐矢京介(D-BOYS中村優一)に対しては忍耐強く温かに接して成長の可能性を捨てようとはしなかった。
それにしても今朝の冒頭の、明日夢と桐矢の対比には考えさせる力がある。ヒビキ門下の修業で生傷の絶えない両名は帰宅後には傷口に薬を塗り治療に励んでいて、その傷の痛みに悲鳴を上げるそれぞれの姿が笑いを誘うような仕方で描かれたが、反面、それぞれの境遇の悲しい違いをも際立たせたのだ。明日夢が狭いながらも楽しい家庭で、威勢のよい肝玉母の郁子(水木薫)に薬を塗ってもらっていたのに対し、桐矢は、広いながらも孤独な邸内で、自分一人で傷の手当てをしていた。明日夢が悲鳴を上げれば母が叱咤激励してくれるが、桐矢が悲鳴を上げてもその声は誰にも届きはしない。
桐矢が所謂マザコンであることは彼の初登場の第三十之巻で明かされていたものの、当の母親は海外に単身赴任していて不在。彼は何時も一人。そのことに起因する欠乏の感覚を想像しておくことはもちろん必要だが、むしろそれ以上に、一般に長期間の孤独が少年をどのように育てるものであるのかという問題に着目したい。ここでの前提は、彼にはどうやら明日夢以外に友がいないらしいことだ。彼の日常に話し相手はいない。昨夜「野ブタ。をプロデュース」感想文中でも触れたように、分析哲学者パトナムの論「水槽の中の脳」ではないが、どんなに優れた知力を備えていようとも外部との真剣な接触を欠いた人は物事の真実に達することができない。「己を超える」ことができないからだ。だが、反面、己の内部に沈潜してこそ達し得る深みがあることも確かだろう。「ドラゴン桜」第十話における桜木建二(阿部寛)の台詞を想起しよう。「一つだけ、一人で学ぶ独習に敵わない部分がある。それはな、密度だ。勉強に打ち込む時間の濃さだ。孤独ゆえに濃く、そして濃いがゆえに強い」。そうだ。現在の桐矢少年を特徴付ける完全性と不完全性の二面性は孤独のこうした二面性に他ならない。ヒビキは桐矢少年に特有の「密度」について恐らくは各種トロフィーや賞状の類を出されるまでもなく百も承知の上で、敢えてそれを彼自身に打破、超越させようとしているのだろう。