任侠ヘルパー第十話

フジテレビ系。木曜劇場任侠ヘルパー」。第十話。
脚本:古家和尚。演出:石川淳一
今宵の話は、苦味と悔しさ、悲しみと寂しさを湛えつつも、何時になく静かに推移してゆくかと思われたところで、最後に、介護施設「タイヨウ」に火の手が上がってからは文字通り怒涛のような激動に突入した。
この激動は、一方においては、隼会から「研修」のため派遣されていたあの任侠ヘルパー衆が既に立派にヘルパーとしての技術と精神を血肉化していたことを見せたが、同時に他方においては、任侠ヘルパー衆の、特に翼彦一(草なぎ剛)が一見たとえ無愛想でも心優しいヘルパーと見ようとも、死をも恐れぬ無謀なまでの行動力においてどこまでも任侠の人であることをも見せた。
だが、この「任侠」とは語の本来の意味における任侠であり、恐らくは、隼会若頭で鷹山組々長でもある鷹山源助(松平健)が標榜する「任侠道」の意に適うものであるだろう。
優れたドラマが激動の事件を描くとき、その事件の激しさには少々似つかわしくないかもしれないような柔らかな挿話をも、そこに見事に組み込んでしまう。黒沢五郎(五十嵐隼士)と美空晴菜(仲里依紗)との間の和解と恋心の瞬間がその一例を提供した。
任侠ヘルパー衆の正体が暴露されて醜聞と化し、恐れをなした他の多くのヘルパーたちが逃げ去った上に、このような火災までも起こして、「タイヨウ」所長の園崎康弘(大杉漣)は気の毒ではあるが、唯一、彼自身に責任を求めざるを得ない問題もあった。利用者に対する心配りを重視する余りヘルパーの負担の軽減を図ろうとしなかった点がそれだ。園崎康弘の姿勢は、「ハートフルバード」創業者の羽鳥晶(夏川結衣)の思想とは対極をなしている。この姿勢が現実に機能するためにはヘルパーの人手が必要であるに違いないが、大勢のヘルパーを雇用できるためには、人件費を稼ぐべく、かなりの利益を上げなければならないはずであり、しかるに甚だ矛盾したことに、この姿勢では利益を上げようがない。
園崎康弘の理想主義的な姿勢の結果として、負担の重さのゆえに疲れ切った美空晴菜は持前の優しさも心配りも見失う程だったし、また、利用者の快適性と自由を尊重し過ぎる余り、危険な行動に出る癖のある老人を拘束することもなかったことがあの火災の原因をも作ったのだ。
見所は多かったので一々挙げてゆけば際限がない。一つだけ挙げるとすれば、私的には特に、「タイヨウ」から隼会の鷹山組へ復帰した和泉零次(山本裕典)の行動力、身体能力に驚嘆した。ヘルパーとして有能だった彼は任侠としても有能だったのか。彼は今後も鷹山組長の側近として極道の世界を生きてゆくのか、それとも、老人介護の世界に復帰して、任侠ヘルパーとして別の任侠道を極めてゆこうとするのか。次週の最終回を待とう。